御師の家 梅谷

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うめやアネックスのべランダから撮影。2月9日。富士山と鳥居。

富士山信仰 御師の家「梅谷(うめや)」。  河口(富士河口湖町)で現存する唯一の御師住宅。約200年前の築。「御師の家 うめや アネックス」Umeya Annex もオープンして1年。6月30日には地元テレビUTYのニュースの星で紹介されました。テレビ東京『YOUは何しに日本へ?』の番組取材がありました。無事8月28日放映!                          テレビ東京公式サイト http://www.tv-tokyo.co.jp/youhananishini/                        。2018年2月17日、YBSテレビ(山梨放送)で『YOUは何しに日本へ?』が再放送されました。民泊も今年の6月より解禁です。母屋へのお泊りも!2018年6月26日、母屋と中門が富士河口湖町の有形文化財に指定されました。

河口浅間神社の父母杉。右がイザナギ、左がイザナミと言われています。最近、カップルで我が家にお泊りのお客様が、数多く訪れています。父母杉は、夫婦円満、安産の神様として感じるものが外国の方にもあるようです。

江戸時代、富士登山者をお泊めした御師の家を後世に残したい。

12月9日、13時スタート。クラウドファンディングサイトREADYFORでファンド開始。2020年1月31日。クラウドファンディグ目標達成。ご支援ありがとうございました。感謝申し上げます。

●6月26日、NHK甲府「ニュース山梨845」で御師の家『梅谷』が、富士河口湖町の有形文化財に指定されたと放送されました。今回の指定は、母屋と中門。今まで1776年築と言われて来ましたが、昨年末の県による調査で1776年築の建物は火事で消失し、その後1800年前半に建てかえられたものが現存する建物だろう、とのことです。ちょっと残念。1776年はアメリカ建国の年。



 

御師(おし)の家(御師住宅)

富士河口湖町にある河口浅間(あさま)神社は、富士山の大噴火があった貞観7年(865年)に朝廷の命令で建てられました。

現在、富士山世界文化遺産の構成資産のひとつでもあります。昨年12月には、創建1150年祭が行われました。

御師の家も富士吉田では、旧外川家や小佐野家の御師住宅が富士山世界文化遺産の構成資産のひとつになっています。

この河口(富士河口湖町)は、古くは甲斐の国の3駅のひとつです。東海道から別れ、甲斐の国府までの道の途中にありました。
江戸時代には、富士山へ登る人たちのための宿坊として河口には140軒あまり、富士吉田にも80軒以上の御師の家で栄えました。

御師の家は、登拝者(道者/どうじゃ)を泊めるだけでなく、富士山に登るためのお祓いや祈祷なども行う神職の家でもありました。
江戸時代の富士登山は、観光というよりは信仰の山に登るという人たちの山でした。
「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と言いながら金剛杖で一歩一歩、極楽浄土を求めて頂上を目指したものと思われます。
当家は、富士山御師河口12坊の一つで、屋号を梅谷(梅屋/うめや)と言い、鎌倉時代には既にこの場所にあったと思われます。

江戸時代(1776年)に建てられた母屋は、河口で現存する唯一の御師住宅です。

現在、江戸時代の富士山信仰の資料などの展示会場としてご覧いただけるようにしてございます。

また、ご希望により体験宿泊、いろりで作る料理体験、祝詞(のりと)体験、版木で作る護符の印刷など御師の家で体験してみませんか?(要予約)

※富士山の祭神である木花開耶姫の護符や小冊子などの販売もしております。

 

※河口12坊とは、御師坊の屋号で言えば、大国・靱(うつぼ)・瓶子・俵・上・額・友・申(さる)・梅・玉・関・駒の12坊です。

御師の家 梅谷(うめや)
富士河口湖町河口1129(河口浅間神社前)

お問い合わせは aoa@growing-japan.com    0555-76-5181

●地図 

http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=35.53026282&lon=138.77215056&ac=19430&az=5.1129&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C%E5%8D%97%E9%83%BD%E7%95%99%E9%83%A1%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E6%B2%B3%E5%8F%A3%E6%B9%96%E7%94%BA%E6%B2%B3%E5%8F%A3-1129

 

桜は、河口浅間神社の家紋です。

本庄の家紋は、加賀梅鉢。その謂われは不明です。

江戸時代、古文書などには菅原や菅家を名乗っておりました。菅原道真公の家紋とも同じと言われています。菅原道真公の母親は、大伴氏といわれています。大伴氏は、秦氏の流れ?河口のご先祖は、秦氏?それでパクッた??文政元年(1818年)、吉田家より神道裁許状を取得した22代 本庄牧夫(1782~1862年)の官名が本荘美作菅原珍直。下記参照。


WELCOME TO KAWAGUCHI.             OSHI HOUSE   御師(おし)の家  

This house dates to the Edo period (1776) and remains the only extant domestic building in Kawaguchi originally used by an oshi. Oshi were a type of religious practitioner associated with specific shrines, in this case the Asama shrine.  Their role involved guidingvisitors through the shrine or temple and offering prayer (kito) on their behalf as well as providing lodgings and the like.There was a house of OSHI of about 140 houses in the heyday.
Twice a year during spring and autumn oshi traveled from the town to the countryside offering prayers in exchange for donations and encouraging people to climb Mount Fuji as a means of obtaining spiritual advancement.  During the Edo period climbing the mountainbecame a popular endeavor with many people being cared for by the Oshi at this residence as they made their physical and spiritual preparation to climb the mountain, setting out from the Asana shrine.
 この家は、河口で唯一現存する御師の家です。1776年、江戸時代に建てたものです。 御師とは、浅間神社の神職として発生しました。江戸時代には、富士登山の世話役として活動しました。登山の準備、宿泊、食事、祈祷などを行いました。全盛 期には、140戸ぐらいの御師の家がありました。
 御師たちは、年に2回、春と秋に地方の村(檀家/道者)を回りお札などを配布したり、祈祷をしてお布施をもらっていました。江戸時代に富士山に登る人たちが多かったのは、御師の営業活動(布教活動)が大きく影響しました。

 

河口湖町で唯一現存する御師の家
河口御師の家 梅谷(本庄)

富士河口湖町で唯一現存する御師住宅。

富士山御師 河口十二坊の一つ梅谷(うめや)。1776年建築。

富士山世界文化遺産の構成資産の一つ、河口浅間神社の道(みさか路/鎌倉往還)を挟んで真ん前にあります。幅約2mの達道(タツミチ)を40mほど進むと門があります。

 途中には小川(水路)があり、道者たちは身を清めました。

 

●梅谷(本庄)の歴史

我が家の家系図によると、鎌倉時代・弘安(1278年~)の頃までは大久保賀平次(祖先34世ノ孫)が広瀬近くの大久保の地に住んでいました。正安年度(1299年~)に現在の地(河口)に移り住んだと言われています。また、この時「故アリテ本庄姓トナル」とあります。このころ甲斐国史にも出てくる本庄采女(うねめ)が本庄の初めとなります。采女が日蓮聖人とお会いしたのが、1282年9月12日だったそうです。それ以来、本庄靱負(ゆきえ)、為之進、美作、美治、直助、次太夫、采女、ハ左衛門、美作、岐七郎、牧夫、傳次、九内介、伊予守、遠江、美作、武衛、直賢、直房、雅直、牧夫、直 哉、静衛、魁平、雅直、元直と現在に至っています。

 

※河口で本庄を名乗るのは、4家系と思われます。 本庄采女、靱負、美作を名乗る当家。もう一つ、五郎左衛門、監物を名乗る、いわゆる大梅谷(1690年代から1700年ごろに大を付けるようになったようです。) 1600年ごろ当家より分家となった八左衛門、左善を名乗る本庄。もう一つが大和、主水を名乗る梅谷(梅屋)。 

                                                                                                                                                             

※祖父の魁平によると、大久保賀平次が祖先34世ノ孫としているのは、今から1800年前ごろ大陸より秦氏の流れが河口の地にやって来て、住み着いたという言い伝えがありま す。すでに枯れてしまった樹齢1800年とも言われる大桧(おおひのき/昭和3年内務省・天然記念物に指定。昭和33年10月枯死。)は、秦氏の屋敷に あったと言われ、我が家の祖先もその時からだろうと言い残しております。ただし、定かではありません。(1000年を30歳かける34代?で計算?)

本庄采女、1282年9月12日。日蓮聖人が常陸(茨城県)の温泉にて療養をするため身延山を出立し、武州(東京都)池上への通行の砌、河口に立ち寄られた折、謁見。本庄采女は神職でありましたが教化され、真言宗大同山御堂寺の住職であった弟を日蓮聖人に会わせ、問答教化数回、遂に法玄律師は法華経に帰伏、名を日領、寺号を持名山蓮華寺と改授されたと伝えられています。日領大上人(采女の弟)が開祖となりました。江戸時代までは、代々、本庄の分家が住職となってきたようです。分家である大梅谷もその一つです。現在、河口湖の大嵐に現存する持名山蓮華寺です。このことは甲斐国志にも一部載っています。

甲斐国志(かいこくし)は、江戸時代の地誌。文化11年(1814年)に成立。 甲斐国(山梨 県)に関する総合的な地誌で、全124巻。編者は甲府勤番の松平定能(伊予守)。

左の写真は、今も蓮華寺に残る日領大上人(采女の弟)のお墓です。

 

●蓮華寺の由緒

http://www.renge-temple.jp/about/

●日蓮大聖人の足跡をたどる

http://homepage3.nifty.com/juhoukai/juhoukai/juhou/minobu-ikegami.html

                                                                                                                       17代 本庄美作(1600~1679年)の自画像です。

            平成26年、河口湖町教育委員会が調査した河口12坊の一つ

            であり、徳川家の祈願所でもあった三浦家の資料の中に興味

            深いものがありました。三浦家4代吉治が逝去した時、彼の

            死を悼む歌を記した文書でした。その弔辞を読んだのが吉治

            (1605~1672年)の幼馴染の本庄美作こと梅谷美作守直保

            でした。実は、美作の生まれた年が不明だったのですが、こ

            の文書で美作とは4歳下の幼馴染であったことが分かり、年

            齢が推測できました。

 

            ※三浦家は、3代将軍家光の時、4代将軍家綱の誕生の際に

            御祈願所となった河口の名門御師のひとつです。

            ※三浦家の門(富士河口湖町文化財)

        http://www.fujisan.ne.jp/search/info.php?ca_id=2&if_id=652

            ※徳川四代将軍家綱生母宝樹院と富士山御師三浦家   

     http://www.oyama-ct.ac.jp/tosyo/kiyou/kiyou40/004sakairiyouko.pdf

                                                                                                                                

21代 本庄雅直(のりなお/1741~1827年)の自画像。(菅原本庄隠岐太夫とも本庄靱負直好とも名乗っていました。どう使い分けしていたのか調べる必要あり。)

白川家の学頭だった森昌胤(まさたね)没後、京都へ行った折、資延王(当時16歳)にも謁見して白川家より戴いた掛け軸です。(森昌胤のお墓は、河口の地にあります。33回忌には吉田の西念寺で営まれ墓碑も建立されました。)

 ●森昌胤(1715頃~1785年)は、宝暦10年(1760)に白川家の学頭に補任されました。後に、神祇伯資顕王より「顕」を賞賜され森顕胤(もりあきたね)と名乗りました。また、森専鉾(せんぽう)とも号しました。

宝暦12年(1762)には森昌胤は『神道通国弁義』を著し、伯家神道の意義を示しました。

 

 ●白川家と吉田家の代理戦争(宝暦争議1760年)

富士山御師は富士浅間御師として、正式に浅間神社に奉仕する神職であると言うことが、宝暦争議によって決まり、御師は白川家に免許状を返納することとなるが白川家と御師の師弟関係は断絶せず続いてゆきます。(「富士山御師の歴史的研究」山川出版社刊)森昌胤が白川家の学頭になった年にあたります。

                                           http://blog.livedoor.jp/pipeman912/archives/12782575.html

右の写真は、上の掛け軸の裏に書かかれたものです。本庄雅直(菅原本庄隠岐太夫)は白川家学頭の森昌胤の死後、1786年(丙午年5月)木曽街道から京都へ行き、白川家当主の資延王に謁見。そして、この自画像の掛け軸を頂いた旨が書き残されています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下記の資料は、「甲斐の神道」深山忠六著(神道学会発行/代表者 千家尊宣/昭和45年)の中の一説です。甲斐の神道は、京都より直接に国中と郡内に広 まったようです。郡内(都留郡)では、白川神道の学頭であった森専峯(森昌胤)の門人として秦由清と本荘(本庄)雅直、靱負に伝わったと記されています。 (本庄雅直と靱負は同一人物と思われます。雅直は靱負とも名乗っていました。)この当時の御師は、いわゆる導者を泊める宿坊の主人の一面とは別に国学者としての一面も持っていたように思われます。山県 大弐と並列に扱われているのは、驚きです。

            

            文政元年(1818年)、吉田家より神道裁許状を取得する。

            22代 本庄牧夫(1782~1862年)と思われます。官名が

            本荘美作菅原珍直と名乗っていました。また当家の家紋は菅

            原道真公と同じ梅鉢です。何故に菅原姓を使っていたのか、

            その謂われも定かではありません。また、本庄の庄を荘と書                                               かれている場合も多いようです。 

 

            河口湖町大嵐の日蓮宗蓮華寺(1282年)の開祖が本庄采女

            の弟ですが、そのお寺の家紋も同じ梅鉢です。

            そのとき(鎌倉時代)既に当家の家紋は、梅鉢だったと推測

            されます。

 

            【蓮華寺の由緒】

            http://www.renge-temple.jp/about/

                

 

25代 本庄魁平(1893~1984年)

戦前・戦後と事業にもチャレンジしました。晩年は河口浅間神社の神主として奉職。『川口村の古事志』の出版。地域の歴史研究に尽力しました。

昭和54年5月5日(1979年)に祖父が祝寿として詠んだ歌が印象的です。私は数年前に知ったものです。

「わが一世 宝乃山をさまよいて 拾いしものは歳ばかりなり」

24代 本庄静衛(1852~1918年)

静衛は、慶応四年(1868)、16歳の時に川口村の富士山御師で結成した隆武隊に参加し、甲府城の鎮武につく。明治政府に2度にわたる士族願いを提出するが却下。河口浅間神社の官社加列願いを明治政府に提出。巡査の職にも就く。川口村の村長などをした後、神戸の造船所で働き、晩年は河口浅間神社の神職を勤めました。『川口村の口碑・史料』を残しました。

23代 本庄直哉(1827~1899年)

江戸時代は檀那場廻りなど、御師として活動。「浅間薬」などという薬も作り販売?していた模様。袋が残っています。

明治維新後、御師解体により扶桑教で活動したり一宮浅間神社や河口浅間神社の奉職も勤めました。


御師解体後の本庄家の人々は・・・・・

明治4年(1871年)7月、明治政府は御師を廃止。河口は、今まで御師で生計を立てていましたから、それぞれ新たな道を模索しなければなりませんでした。本庄直哉は神職の道を。長男の静衛は、巡査をしたり、村長をしたり、神戸の造船所でマネージャーとして働きもしました。静衛の弟たちやその子供たちは、アメリカへ働きに行きました。その当時、この地域の人たちはアメリカは西海岸へ行き農場などで働く人が多かったようです。日本で農業をしていたわけではありませんから、そう簡単に成功はしません。当家でも成功したのは、静衛の弟の娘・ためでした。結婚して旦那さん(中村寅次郎/写真左下ツーショット)と一緒にカリフォルニアへ行き、農場で成功。アメリカとの戦争の前に帰国したそうです。(写真上中央は静衛の弟・和作の長男・牧男と嫁のヨネで静衛の長女。いとこ同士の結婚。左隣りが、成功した静衛の弟・望太の娘・ため。この写真は、牧男夫婦が結婚してすぐにアメリカへ行き、現地で撮ったもの。ちょうど今から100年ほど前の写真です。)

 

これからの本庄家は・・・・・

本庄雅直(1915~1991年)

定年後、田舎に戻り神主でもやるつもりだったか?

現在、神主の資格を取るには年齢制限があります。そのとき既に年齢オーバーだったのでは?最近になって父親の残してあったノートなどを見ると、我が家に残っている古文書などの資料がきちんと整理して記録されていました。もっと早くいろんなことを聞いて置けばよかったと、後の祭りです。

昨年、次男夫婦と長女夫婦、次女が田舎にやってきました。長男はイギリス人と結婚してロンドン在住。千年続いて来た我が家ですが、果たしてこれからは??

これから100年、1000年と祖先は繋がって行きたいものです。

昨年9月、初孫が生まれました。


明治から昭和に掛けて、当家の親戚の人々も新天地アメリカへ夢を求めて出かけて行きました。当家は、静衛が長男だったこともあって、アメリカへは行きませんでした。私の父は、志願兵として海軍に。稚内で真珠湾攻撃のトラトラトラの通信をした部隊にいました。

静衛の弟・和作やその子供たち。弟・望太の娘・ため。

魁平と妻・すわ。父・雅直と兄弟姉妹たち。


明治政府は、なぜ御師制度を廃止したのか?

明治4年(1871年)の神宮改革によるものです。
神職の世襲制や御師制などを廃止した改革で、大政奉還によって徳川幕府が終わり天皇主宰である明治時代が始まったことを機に施行されました。
そもそもの理由は太政官令第234号にいわく「神社ノ儀ハ国家ノ宗祀ニテ一人一家ノ私有ニスヘキニ非サルハ勿論ノ事ニ候(国家のまつりごとの場である神社の職務が、世襲の特定の家によって独占されるべきではないのは当然のことである)」というものだったようで、要するに目的は政府によって国家宗教としての神道を完全なコントロール下におくことでした。
それに伴い宮司・禰宜など神職の世襲だけでなく、これも江戸時代には世襲制となっていた神職と参詣者の仲介を担う準神職である御師の制度も廃止となりました。

(ヤフー知恵袋より http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1083048975)

河口の神葬祭について。

 

現在、日本では主にお葬式は仏式か神式ですが、江戸時代まではこの地域では仏式のようでした。当家のご先祖様たちも戒名はすべて男は何々「居士」でした。女性は大姉でした。お墓も臨済宗の善応寺というお寺です。ただ、明治以降は何々「命」という神道の戒名になっています。

一般的に神葬祭が行われるようになったのは、幕末から明治以降のようです。神仏分離によって藩主や士族、神職そして一般庶民に広がったようです。特筆すべきは、現在この河口地区ではお葬式はほとんど神葬祭です。富士河口湖町の中でもこの地区だけです。江戸時代この地区は、人口(271戸)の半分が御師の家だった名残りでしょうか。先日、隣接の富士吉田市にある葬儀場で聞いた話ですが、お葬式の9割が仏式で神式は1割程度。また神式のうち7~8割が河口ですよといわれました。地元の富士吉田の人で神式でやられる方は、一年に10件もないとのことでした。どうも富士山信仰と神葬祭とは別物のようです。

 

【神葬祭の沿革】

昭和40年に出された「神葬祭の実態調査」(神社本庁調査部)によると、神葬祭は神道による葬祭であるため、日本民族固有のものでしたが、奈良時代以降、仏者の手に委ねられるようになりました。江戸時代になり、1713年(正徳3年)ごろより神道葬祭の研究が勃興してまいりました。この時代は、仏教の宗門改めの制度があって、人々は寺請証文を出さなければいけませんでした。そのため葬式は一切僧侶の手中に握られていたのです。神職に神葬祭が幕府から許可されたのは、1785年(天明5年)信州松本の社人からです。それも当人と嫡子だけでした。これがきっかけとなって、諸国の神職から神葬祭を願い出る者が続出したと言われています。1805年(文化2年)には、甲斐の国都留郡(河口、富士吉田など)も神職と嫡子だけ認められました。その家族や女房などは認められませんでした。やはり、神葬祭が自由に行われるようになったのは、明治元年の神仏分離以降となります。

 

【霊魂の行方】(「神葬祭の実態調査」(神社本庁調査部)より抜粋、一部訂正。)
柳田国男の「祖先の話」の中で、「日本人の死後の観念、即ち霊は永久に、この国土のうちに留まって、さう遠方へは行ってしまわないといふ信仰が」まだ持ち続けられている、と言う。つまり、我が国土の静かな所から、私共の上を見そなはしてゐて頂く。呼べば応へてくれる所に居られる。それが、その家の霊舎、祖先代々の墓場、氏神の社に、祖霊の常在・顕在を信じ、厚い祭を捧げてゐる所以である。(「千の風になって」と言う歌がありましたが、お墓にだけ居るのではないのかもしれない。祖先神とは、私達の身近な所で見守ってくれている。そして、ある時は手を差し伸べてくれるものなのかもしれない。)祖神と私共との関係に、これを置き直すなら、自分は祖神の生命・魂を継いで、この世に存在してゐる。祖神の御霊(みたま)は次々に、自己および子孫のうちに生きついでゆくといふ信仰は、永く日本人に受け続づけられたものである。」

祝詞(のりと)の中の最後に、「子孫(うみのこ)の八十続(やそつづき)に至るまで、弥栄(いやさか)えしめ給えと、恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白す」という詞(ことば)がありますが、この事を言い表していると思います。

祖先の祖は、おや(親)と読むのをご存知でしたか?祖先とは、親の先。またその先。またその先。それが祖先なのです。そう言われてみると、少し祖先が身近なものに感じませんか?今までお年寄りから祖先がどうのこうと言われると、オレには関係無いと思ったりしませんでしたか?実は私も、この言葉の意味に気付いたのが数年前、國學院で神主の養成講座の折でした。我が家も祖先は千年余りの歴史があると親や親戚の人から言われ、それがどうしたの?と言うぐらいのものでした。祖先と言う言葉は、あまり縁の無いものと感じていました。しかし、祖とは親と言うことと知ってから、とても身近なものとして感じています。今ある自分は、親があり、その親には親がありと、脈々と繋がっている、それが自分なのだと。当たり前のことなのですが、そこに感謝と言う気持ちがわいてくるのかもしれません。

実は、昨年、娘の結婚式の挨拶で、「結婚式は祖先づくりの始まりです」と話しました。何十年、何百年後にあなた達のことをご先祖の誰誰は、こんな人たちだなんて言われることでしょう、と。式が終わり参列者をお送りしていた時、若者が近寄ってきて「お父さん、いい話を聞かせてもらいました。」と声を掛けられました。若い人たちに、つまらない話をしたかなと思っていましたが、ちょっとうれしい気持ちになりました。

 



白川家の古文書が多く残されています。特に森昌胤(顕胤)のものが多いです。

●白川伯王家(白川家)について

白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王(1025年/清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E4%BC%AF%E7%8E%8B%E5%AE%B6

「また神祇伯に任ぜられると某王と称することを許され,その女は女王と称した特異な家である。伯家が王を称することを許された理由は,朝儀において王を称するものが必要であったからである。たとえば,天皇の伊勢神宮への奉幣は王が使者となり,天皇即位礼のとき,高御座(たかみくら)の御帳を褰(かか)げる2人の女性のうち,1人は女王であることなどがそれである。」

 

寛文5年(1665年)に発布された諸社禰宜神主法度ではその第三条にて無位の社人が白張以外の装束を着用する際には吉田家の裁許状を要する旨が規定され、これにより吉田家の支配下に入る神職が増えたようです。


伯王殿御詠歌

(御短冊)

 

倉橋刑部卿恭行卿、正親町大納言實光卿、三條中納言實萬卿、日野中納言資愛卿、中院宰相中将通知朝臣などの方々が詠まれたお歌です。

森左京源昌胤より本庄靱負源尚好(本庄雅直)が伝授。

上の古文書は、白川家の学頭であった森昌胤が本庄靱負直好(本庄雅直)に許伝したものです。

元文大嘗会役記(考献器図)

 

享和2年(1802)白川家からの神拝次第の免許を本庄靱負直好(本庄雅直)が伝授。



●白川家改名について

地方の神社などに対して、神祇伯の職掌として白川家が重要だと考えていたものに「国名呼名」改名や神道伝授があります。例えば神職を「山城」等の「国名呼名」に改名させるという行為は、宝暦八(一七五八)年の朝廷見解でも認められており、白川家としても「諸国之神社無位之神主井神職家業之者へ、国名呼名等被与之儀者、従古来伯家之仕来り御座候事」であると主張する事柄です。白川家に入門している者に対して行なわれたようで、「改名許状」が白川家から発給されました。改名が行なわれると、白川家から改名者所在の領主役所(寺社奉行等)に宛てて、事後報告がなされました。我が家でも、梅谷美作守直保(17代本庄美作)と名乗っていました。国名ではありませんが、我が家で多く使われている「靱負(ゆきえ)」も同じようなものかもしれません。ちなみに歴史的な意味は、律令制度の衛府の官人で、宮中を靭(ゆぎ:矢を入れる道具の一種)を背負って見回りをする者で、ゆげいと読む、と言うことです。いわゆる官職名にあたるのかもしれません。

徳川時代後期の神道と白川家(幡鎌一弘)

https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3471/OYS001202.pdf

神祇伯白川家の神社管掌と武家伝奏・職事(藤井祐介)

https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/3477/1/kinsei_2_95_118.pdf

●これが白川神道の神拝次第です。

文政元年(1818)に白川神道の学頭より伝授。たぶん、伝授されたのは22代本庄牧夫(本荘美作菅原珍直/1782~1862年)かと思われます。牧夫は同じ年に吉田家より神道裁許状も取得しています。(上に掲載しています。)

 

【お願い】

森昌胤以後、平田篤胤までの間の白川神道の学頭の名前をご存知の方はいませんか?お教えください。

森昌胤以後の学頭の名前がなく、花押(サイン)しか書かれておりません。(左上写真参照)

 






正面玄関には、展示場として梅谷に残っている富士山信仰や御師についての古文書や資料が展示されています。

お札なども販売しています。展示場の入館料は無料。

 

奥にある部屋は上段の間と言って、神事を行った部屋と思われます。

河口御師は、神職として苗字・帯刀が許されていました。

戦国時代、川口梅谷一家中あてに出された武田信玄公(晴信)からの感状(天正4年子4月21日)などには、「其方儀今度御坂口固メ之際所、毎日出勤其上手勢之人足五人、永々奇進之旨忠節之至、追而其沙汰有之可申条如件」とあり、御師も戦に関わっていたと思われます。(伊藤堅吉氏の富士山御師より)

 

河口の御師たちは、京都の吉田家や白川家より神職の許可を受けていました。

我が家では、特に白川家との付き合いが深かったようです。白川家は、天皇家の祭祀を司っていた神祇官の長官職を世襲しておりました。白川家の学頭だった森昌胤の古文書や掛け軸なども残っています。更には、日本の最後の女帝であられた後桜町天皇の遺品などお公家さんたちの古文書やお歌なども残っています。

江戸時代、祈願を願う人たちは、自分の身につけていたものなどやお名前と年齢などをしたためたものを送られ、御師たちに祈祷を願い出ておりました。左の写真、天保天皇の扇子もその一つです。

 

後桜町天皇の女官、権大納言正親町公明の二女、鍾子(アヤコ)様。

四女、長男のお名前が書かれています。

上段の間。ここで神事を行いました。吉田の富士講のように立派な祭壇は無かったようです。
上段の間。ここで神事を行いました。吉田の富士講のように立派な祭壇は無かったようです。
いろりを囲んで食事をしていたようです。
いろりを囲んで食事をしていたようです。

当家で所有の版木から刷ったお札(100円)や手ぬぐい(500円)、小冊子(100~500円)なども販売しております。

江戸時代のお札や御影として作られた牛玉(ごおう)や木花開耶姫の絵柄を入れたTシャツなども販売しております。


4月6日の富士山(当家2階より)

7日は雨のため、雪も次第に溶けて行くことでしょう。

4月18日の富士山。

だいぶ雪が解けて来ました。

スバルラインも五合目まで行けるようです。

5月5日。こどもの日の富士山。

真ん中の部分が、農鳥(のうとり)と言われるところですが、ちょっと崩れていますね。農鳥は毎年4月下旬から5月中旬ごろ、標高約3千メートルの富士山7、8合目付近に現れ、地元では田植えの準備を始める時期を知らせる初夏の風物詩として知られています。

5月25日の富士山。農鳥(のうとり)の部分もだいぶ小さくなりました。

7月7日の富士山。少し雪が残っていますが、夏山の富士山の姿になりました。

8月の冨士山。

9月25日、富士山初冠雪。去年より16日早いとのことです。

しかし、初めての雪なのに正式には初冠雪と言わないそうです。

甲府の気象庁から見えないとダメだそうです。残念ながら、その日は甲府からは見えなかったので、

初冠雪とは言わないそうです。一ヵ月後の雪が、初冠雪だそうです。甲府から見えたから・・・????

行政って、面白いものですね。郡内(富士河口湖町)から見えても、国中(甲府)で見えないとダメ?江戸時代のなごり???

10月26日、富士山に薄っすら雪です。

この日は、甲府から見えたので今年の初冠雪となるそうです。

11月1日。朝の河口湖から望む富士山。

湖面は朝もやで幻想的な雰囲気が漂っていました。

昨日の雨で、だいぶ雪が多くなりました。

これから寒い冬の始まりです。

11月1日。夕日に染まる富士山。

今日は天気がよかったので、夕方には少し雪が消えたように感じます。

 

11月25日の富士吉田にある忠霊塔。昨日の大雪で、白銀の世界。近年、忠霊塔は一大観光スポットになりました。富士山と桜と五重塔が京都を連想させ、冨士と桜。日本をイメージするのに最高。タイなど東南アジアでインターネットで紹介され大ブレーク。この日も、多くの観光客が訪れていました。

2018年10月16日朝。富士山に初雪化粧。昨年より10日あまり早い雪化粧。

富士山の初冠雪は9月26日でした。