御師の家 梅谷

何かの縁で父親の田舎に来て十数年。母親の介護という名目で河口やってきましたが、来た当時は我が家の歴史もあまり知らないまま過ごしてきましたが、いくつかのきっかけがあって御師ってなーに?我が家ってどんな歴史があるのか?興味をもってきました。今回、ちょっとしたきっかけで我が家のことや河口御師のことをまとめてみようと思い立った次第です。

下記のテーマについて調べて行きたいと思います。

現在は、データをアトランダムに載せている状態ですので、あしからず。

河口および富士吉田の富士山御師は、富士山登山者の宿泊の世話をするだけでなく富士山に登るためのお祓いや祈祷なども行い、富士山信仰の普及にも努めた。地方にはそれぞれお客様である檀家を持ち春や秋冬には檀家回りをしてお布施をいただくだけでなく、漢方薬の提供や生命判断などの占いなど村人の病や悩み事などの相談にも乗っていたようだ。また、村の神社の格上げをするなど白川家の営業マンとしての活動もしていた。さらには、文化人として国学や医学、和歌などにも励み江戸や京都においてそれらの人々との関りを持っていた。我が家にも、本居宣長の養子である本居太平からの直筆の手紙も残っている。また、白川家での歌詠みの短冊も残っている。三条実美のお父さんである三条中納言實萬卿が読まれた歌などもある。とかく御師は宿屋のあるじ的なものに捉えられているが、経済活動だけでなく文化人としての教養もあったようだ。苗字・帯刀も許され、江戸や京都などへの行き来もでき、人とのつながりや他国を見分ができた、封建時代にあっては自由人だったのかもしれない。戦国時代においては、武田信玄・勝頼からの戦場への要請があったり、幕末・明治維新の折は、尊王攘夷派として甲府城の警護にもついたりした。曽祖父の静衛は2回にわたって明治政府に御師の氏族願いを出したという。だだし、明治4年(1871年)御師制度は廃止され、河口や富士吉田の御師は新たな道を歩むことになった。

 

富士山御師の歴史

川口御師と白川神道

本庄家に残る吉田家・白川家の神職の裁許状など

梅谷(本庄家)に残る白川神道の文献および他の神道文献

古文献などの発見の経緯

富士山御師および白川神道に関する参考資料

本庄家の家系

川口御師の経済活動

本庄家の年表

ふじさんミュージアムさんからの資料提供


21代 本庄雅直(のりなお/1741~1827年)の自画像。

本庄家に残る白川家の古文献。



富士山御師の歴史

御師(おし、おんし)とは、特定の寺社に所属して、その社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことである。特に伊勢神宮のものは「おんし」と読んだ。御師は街道沿いに集住し、御師町を形成する。

本来は「御祈祷師」を略したもので、平安時代のころから神社に所属する社僧を指すようになり、後に神社の参詣の世話をする神職も指すようになった。

平安時代の御師には、石清水賀茂日吉などのものがあるが、代表的なのは熊野三山熊野御師[1]である。熊野詣では平安時代末期に貴族の間で流行したが、その際の祈祷や宿泊の世話、山内の案内をしたのが熊野御師であった。熊野では当初参詣のつど両者間で契約していたが、次第に御師を「師」とし「先達」が率いてきた参詣者(道者)を「檀那」とする恒常的な関係(師檀関係)を形成していった。鎌倉時代には武士にも広まり、室町時代には農民などの庶民まで檀那とするようになった。鎌倉時代から室町時代初期にかけては、伊勢神宮[1]富士講松尾三嶋白山大山などの御師も活躍した。特に出雲大社源頼朝の御師を行った事は『吾妻鏡』という鎌倉幕府の記録を示したものに記されている[2][信頼性要検証]

江戸時代には百姓神職の中間の身分とされ、経済の安定により庶民の間で寺社詣りが信仰と遊興の側面を併せ持つようになっていく中で、伊勢・富士を中心に出雲・津島など多くの神社で御師の制度が発達した。特に伊勢や富士では全国に檀那を持つまでに至った。例えば、伊勢御師は全国各地に派遣され、現地の伊勢講の世話を行い、彼らが伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れて便宜を図った。同様のことは各地で行われ、中世から近世にかけて、御師の間で師職(御師の)や檀那の相続や譲渡・売買が盛んになり、勢力の強い御師のもとに檀那や祈祷料などが集まった。一方で熊野御師は熊野信仰の衰退とともに衰退した。なお、出雲大社の御師組織は大きくなり「出雲講」や「甲子講」もでき、出雲大社教の基礎を築いた。また地方で出雲御師が布教する丹所(たんしょ)という建物も建設された[3]

明治に入ると、政府主導の神祇制度が整備されたため、急速に御師は衰退する。明治2年(1869年)に明治政府は神職の葬儀は神葬祭に改めるように命じるとともに御師は百姓が兼帯しているもので正規の神職では無いため神葬祭を行う事が禁じられた。御師側はこうした動きに抗議したものの、明治4年(1871年)7月には御師職そのものが廃止されてしまい、ほとんどの御師は平民に編入された[4]。御師は百姓や宿屋経営などに転じていくことになるが、富士講の御師を結集して扶桑教を結成するなど、宗教的な活動を維持しようとする動きもあった[5]

 (フリー百科事典『ウィキペディア』より)

 

古来、富士山は火を司る神霊の宿る山として崇められてきた「遥拝(ようはい)の山」でしたが、鎌倉時代には、山岳修験者や庶民の富士信仰が結びついて、入山(登山)修行を行う「登拝の山」へと性格を変化させています。やがて室町時代に入ると、富士信仰はさらに盛んになり、江戸時代になると人々は「富士講」を結成し、組織的に富士山参詣を行うようになりました。

富士山は古くから信仰の山としても人気の山でした。
8~9世紀には、度重なる噴火で富士山は畏怖心から噴火を鎮めることを願って浅間神社を各地に建てました。河口浅間神社もその一つです。
その当時は、富士山自体に神を見い出し、「浅間大神」として崇めたのです。
12世紀には、噴火も沈静化して、遥拝の山から登拝の山へと移って行きます。ただし、修験道の道者の修行の場でした。
やがて、一般大衆が極楽浄土を目指し、登拝が盛んになるのは、江戸時代になってからのようです。山梨県では、甲府や長野・埼玉・群馬などから、御坂峠を越えて河口浅間神社(現在の富士河口湖町河口)からの登拝者が多く、最盛期には140ほどの宿坊があったと言われます。この宿坊は、「御師(おし)」と言われ道者に対して宿や食事を提供するだけでなく、祈祷も行う神職の集団の宿でした。江戸時代も後期になると、江戸から甲州街道を経て富士吉田の浅間神社からの登拝が盛んになりました。これは、富士講と呼ばれる江戸からの登拝者です。登拝は河口から吉田へと移行していきました。
この「御師」たちは、登山時期の前後、春と秋に檀那場(道者=信者の住んでいる場所)の元へ布教活動とともにお布施(初穂料)を集めていました。この時などに、富士山の絵札=護符と言われる「富士山牛玉(ごおう)」や御影(みえい)と言われる神仏の尊像などを配布しました。

 

 

御師の家も富士吉田では、旧外川家や小佐野家の御師住宅が富士山世界文化遺産の構成資産のひとつになっています。

この河口(富士河口湖町)は、古くは甲斐の国の3駅のひとつです。東海道から別れ、甲斐の国府までの道の途中にありました。
江戸時代には、富士山へ登る人たちのための宿坊として河口には140軒あまり、富士吉田にも80軒以上の御師の家で栄えました。

御師の家は、登拝者(道者/どうじゃ)を泊めるだけでなく、富士山に登るためのお祓いや祈祷なども行う神職の家でもありました。
江戸時代の富士登山は、観光というよりは信仰の山に登るという人たちの山でした。
「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と言いながら金剛杖で一歩一歩、極楽浄土を求めて頂上を目指したものと思われます。
当家は、富士山御師河口12坊の一つで、屋号を梅谷(梅屋/うめや)と言い、鎌倉時代には既にこの場所にあったと思われます。

江戸時代(1776年)に建てられた母屋は、河口で現存する唯一の御師住宅です。

※1776年築の母屋は、1809年(文化6年)の川口大火災(86軒消失)で焼けたようです。(近年の調べ)

 

御師の家梅谷は、富士河口湖町で唯一現存する御師住宅。

富士山御師 河口十二坊の一つ梅谷(うめや)。1800年前半の建築。

富士山世界文化遺産の構成資産の一つ、河口浅間神社の道(みさか路/鎌倉往還)を挟んで真ん前にあります。幅約2mの達道(タツミチ)を40mほど進むと門があります。

 途中には小川(水路)があり、道者たちは身を清めました。

 

●梅谷(本庄)の歴史

我が家の家系図によると、鎌倉時代・弘安(1278年~)の頃までは大久保賀平次(祖先34世ノ孫)が広瀬近くの大久保の地に住んでいました。正安年度(1299年~)に現在の地(河口)に移り住んだと言われています。また、この時「故アリテ本庄姓トナル」とあります。このころ甲斐国史にも出てくる本庄采女(うねめ)が本庄の初めとなります。采女が日蓮聖人とお会いしたのが、1282年9月12日だったそうです。それ以来、本庄靱負(ゆきえ)、為之進、美作、美治、直助、次太夫、采女、ハ左衛門、美作、岐七郎、牧夫、傳次、九内介、伊予守、遠江、美作、武衛、直賢、直房、雅直、牧夫、直 哉、静衛、魁平、雅直、元直と現在に至っています。

 

※河口で本庄を名乗るのは、4家系と思われます。 本庄采女、靱負、美作を名乗る当家。もう一つ、五郎左衛門、監物を名乗る、いわゆる大梅谷(1690年代から1700年ごろに大を付けるようになったようです。) 1600年ごろ当家より分家となった八左衛門、左善を名乗る本庄。もう一つが大和、主水を名乗る梅谷(梅屋)。 

川口御師の変遷

・1605年(慶長10年) 12坊

・1697年(元禄10年) 83人  ※秋元但馬守領分ノ節改メ12軒ヨリ相分の83人トナル

・1776年(安永5年) 110余人

・1810年(文化7年) 128人

・1871年(明治4年)  0人  ※この年、明治政府により御師職は廃止されました。

川口村の人口

・1809年(文化6年) 266戸 1140人 村高347石

・1838年(天保9年) 232戸  863人 村高347石 田高9石

・  ?        271戸 1128人 村高347石 田高9石(甲斐国志 巻之十八 村里部第十六上)

・1916年(大正5年) 242戸 1516人(現住者)1906人(本籍登録者)

・2022年(令和4年) 985戸 2359人

川口御師と白川神道

河口御師由緒(河口浅間神社の参道の中ほどには、波多志神の祠がある)

河口の御師たちは、1746年に徳川幕府巡察使であった青木文蔵(サツマイモで有名な青木昆陽)に河口御師由緒を差し出しました。富士山御師の発生経緯をこの地の伝説をも加味して書かれた興味深いものです。その全文をご紹介しましょう。


神武天皇第三皇子神八井耳命の末孫、当山北麓に来たり、この里を発し、下津岩根の童子となづく。従い来るものを供の翁と云う。秦の徐福不老不死の薬を尋ね来て、供の翁の娘(オキナケ)を娶り、ここに留まる。日本武尊が東夷征伐の時、駿河国浮島原にて皇孫之尊と木花開哉姫尊の二神および当山を祭る。ついで、東夷を定め、甲斐国より河口の里に御幸成らる。ここで、岩根の童子一子と不死翁とを道者に当て、山に麻を奉り、「汝は神八井耳命の末孫なれば、宜しくこの神を守り奉るべし」と詔せり云々。秦の始皇帝の子孫が我朝に渡り来りて、諸国に蚕と機(ハタ) を教え上聞に達す。十七代仁徳天皇より姓を波多と給り、なお亦養蚕の師職を賜り、勅許を得て、諸国に蚕と機を教える。ついで、徐福の縁を尋ね、河口の里に来り、不死翁の娘に波多姓を見合せ、世録を分譲す。すなわち波多姓ここに留まる。諸国に蚕と機を教え云々。聖徳太子諸国巡幸の時、守屋大臣の一族が太子に怒りを含み、信濃国へ追いかけ来りせめ奉る。聖徳太子は不慮中途の御軍にて、ことごとく討ち負け、河口の里波多姓の家に落ちのび、当山に御祈誓あそばさる。波多姓は一族を催して、守屋の一族を討ち亡ぼす。是ひとえに当山の神力と波多姓の働きなり。これにより、当山の名を富士とお改めあそばされ且亦波多姓に勅許した神職に更に御の字を添え下され、当山の神職に任ず。御師の由緒件の如し。

先祖より申し伝えるに、当山絶頂の薬子ヶ嶽・秦の大明神一社・八合三愛大明神一社ならびに中宮御神御供所一ヶ所・右三ヶ所は総御師の持ちものに御座候。
延享三年(1746年)丙寅四月写申。
御巡検様指上ケ申時。
青木文蔵様
総御師代 中村左近 本庄監物 中村図書 梶原舎人 中村丹後 中村右衛門

 

21代 本庄雅直(のりなお/1741~1827年)の自画像。(菅原本庄隠岐太夫とも本庄靱負直好とも名乗っていました。どう使い分けしていたのか調べる必要あり。)

白川家の学頭だった森昌胤(まさたね)没後、1786年(丙午年5月)木曽街道から京都へ行った折、資延王(当時16歳)に謁見して白川家より戴いた掛け軸です。裏面には、この自画像の掛け軸を頂いた旨が書き残されています。(上図/名越大祓)

 

 ●森昌胤(1715頃~1785年)は、宝暦10年(1760)に白川家の学頭に補任されました。後に、神祇伯資顕王より「顕」を賞賜され森顕胤(もりあきたね)と名乗りました。また、森専鉾(せんぽう)とも号しました。森昌胤のお墓は、河口の地にあります。33回忌には吉田の西念寺で営まれ墓碑も建立されました。

宝暦12年(1762)には森昌胤は『神道通国弁義』を著し、伯家神道の意義を示しました。

 

 ●白川家と吉田家の代理戦争(宝暦争議1760年)

富士山御師は富士浅間御師として、正式に浅間神社に奉仕する神職であると言うことが、宝暦争議によって決まり、御師は白川家に免許状を返納することとなるが白川家と御師の師弟関係は断絶せず続いてゆきます。(「富士山御師の歴史的研究」山川出版社刊)森昌胤が白川家の学頭になった年にあたります。

  http://blog.livedoor.jp/pipeman912/archives/12782575.html

 

下記の資料は、「甲斐の神道」深山忠六著(神道学会発行/代表者 千家尊宣/昭和45年)の中の一説です。甲斐の神道は、京都より直接に国中と郡内に広 まったようです。郡内(都留郡)では、白川神道の学頭であった森専峯(森昌胤)の門人として秦由清と本荘(本庄)雅直、靱負に伝わったと記されています。 (本庄雅直と靱負は同一人物と思われます。雅直は靱負とも名乗っていました。)この当時の御師は、いわゆる導者を泊める宿坊の主人の一面とは別に国学者としての一面も持っていたように思われます。山県 大弐と並列に扱われているのは、驚きです。

 

吉田家門人一覧

白川家門人一覧(宝暦9年に98人もの川口御師が門人となる)


吉田家門人・白川家門人/宝暦争議1760年

寛文5年(1665年)に発布された諸社禰宜神主法度ではその第三条にて無位の社人が白張以外の装束を着用する際には吉田家の裁許状を要する旨が規定され、これにより吉田家の支配下に入る神職が増えたようです。

川口でも資料で見る限りでは、延宝6年(1678年)三浦淡路守吉明が最初に吉田家の門人なったようです。本庄では、同じく延宝6年(1678年)に梅谷伊予貞資が門人になったと記録にあります。

白川家には、宝暦9年(1759年)に98人もの川口御師たちが門人になっています。それが原因か宝暦10年(1760年)、白川家と吉田家で争議が起きます。富士山御師は富士浅間御師として、正式に浅間神社に奉仕する神職であるということが宝暦争議によって決まります。公事訴訟の結果、神事などの作法は従来通り白川家からの伝授を守り、装束などの免許は以後吉田家へ申し出るようにとの裁許があったといいます。

ただし、宝暦以降、川口では白川家への入門者は増えてゆきます。ちょうど宝暦10年(1760年)には、森昌胤(1715頃~1785年没)が白川家の学頭になったことも影響している。

 

本庄家に残る吉田家・白川家の神職の裁許状など

(1591年 天正19年 帯刀差許状 不二山神職之旦中刀不可有相違重□改不及依□件)

1677年(延宝5年)本荘直明 上津祓・下津祓 1巻物(三浦吉明から伝授)

(1678年 延宝6年 三浦淡路守吉明 従五位下 三浦下記祖父)

1697年(元禄10年)本庄靱負 諸神勧請・神供祝詞・自生祝詞

1704年(宝永元年)梅谷伊予守菅原貞堅 神道裁許状(川戸天神ネ司官)卜部朝臣

1706年(宝永3年) 梅谷大和守菅原直昌 神道裁許状(川戸天神ネ司官)卜部朝臣

1712年(正徳2年) 梅谷保教 神菅領(4組木綿手強之事裁許)

1713年(正徳3年) 本庄直賢 中臣祓(卜部朝臣)

1718年(享保3年) 梅谷伊予象守菅原貞吉 神道裁許状(川戸天神ネ司官)卜部朝臣

          本庄監物ほか14名吉田家官位執奏

1729年(享保14年) 本庄靱負直賢 護身神法

          本庄氏貞吉→受与 本庄次左エ門(護身神法 参詣次第)

1746年(延享3年) 神代書 本庄監物ほか6名が御師の由来を幕府に提出

1751年(宝暦元年) 神道大秘伝書

1760年(宝暦10年) 宝暦事件(白川家と吉田家の裁許状の件で紛争)

1774年(安永3年) 本庄靱負 白川家より起請文

1775年(安永4年) 白川家学頭・森左京源顕胤(昌胤)が吉田・川口に来遊し、御師たちに講義

          本庄靱負 神拝作法相伝(白川家より伝授)

1784年(天明4年) 森顕胤(昌胤)再来 川口(河口)に住む

1785年(天明5年) 森顕胤(昌胤)病にて川口で逝去 お墓は川口に、お骨は吉田の西念寺に埋葬

1786年(天明6年) 本庄雅直(ノリナオ)京都にて資延王に謁見 (自画像の掛け軸を頂いた旨が掛け軸の裏に書き残されています。上の掛け軸の写真)

1790年(寛政2年) 神ネ司菅領長上/資延王 榛名山神号 隠岐太夫(本庄雅直)

1792年(寛政4年) 隠岐雅直 神道裁許状 卜部朝臣

1794年(寛政6年) 鳥大明神神号 神伯王家雑掌より

1795年(寛政7年) 菅原雅直 神道裁許状(風折鳥帽子紗狩衣)神祇管領長 卜部朝臣

1798年(寛政10年) 本庄隠岐源雅直 護神身法

1802年(享和2年) 富士山御師 本庄靱負 神拝之次第伝授/神伯資延王

1804年(文化元年) 富士山御師 本庄靱負 神道霊符神祭式 勅口誼 伝授/神伯資延王

1808年(文化5年) 本庄隠岐大夫 護神身法 神伯資延王

1815年(文化12年) 本庄靱負菅原眞澄美 鎮魂祭文 神伯資延王殿

1818年(文政元年) 本庄美作菅原珍直 神道裁許状

          義直・ 菅原珍直 中臣祓 三種大祓

          菅原珍直 六根清浄大祓 神道管領

          本荘備前菅原直房(大梅谷) 神道裁許状

1831年(天保2年) 正月 伊勢・内宮出入り 差上申し札之事 山田奉行所 菅家

1833年(天保4年) 本庄美作 後桜町天皇女官・鍾子(アヤコ)より祈願

1842年(天保13年) 本庄牧夫 吉田家狩衣 神道裁許状写し

1860年(万延元年) 菅原直哉 神道裁許状  神道管領

           本庄美作菅原直哉  中臣祓 参詣次第 神道管領

1864年(元治元年) 菅原直哉 衣冠着用 神道裁許状 卜部朝臣

1865年(元治2年) 真幾雄霊神ノ神霊の号令附与 神伯王家令(直哉の父)

          本庄美作 八代郡米倉村 白川家関東御役所へ

1866年(元治3年) 本庄美作直哉 衣冠着用免許 卜部朝臣良長殿より

 

 

 

 

 

文政元年(1818年)、吉田家より神道裁許状を取得する。

22代 本庄牧夫(1782~1862年)と思われます。官名が本荘美作菅原珍直と名乗っていました。また当家の家紋は菅原道真公と同じ梅鉢です。何故に菅原姓を使っていたのか、その謂われも定かではありません。また、本庄の庄を荘と書かれている場合も多いようです。                                      

 

富士河口湖町大嵐の日蓮宗蓮華寺(1282年)の開祖が本庄采女の弟ですが、そのお寺の家紋も同じ梅鉢です。

そのとき(鎌倉時代)既に当家の家紋は、梅鉢だったと推測されます。

 

【蓮華寺の由緒】

 http://www.renge-temple.jp/about/

                

文政元年(1818)に白川神道の学頭より伝授。たぶん、伝授されたのは22代本庄牧夫(本荘美作菅原珍直/1782~1862年)かと思われます。牧夫は同じ年に吉田家より神道裁許状も取得しています。




梅谷(本庄家)に残る白川神道の文献および他の神道文献

寛座観神法則 森左京源昌胤 許傳 本庄靱負直好

大嘗會    森左京源昌胤 許傳 本庄靱負直好

元文大嘗會役記 考献器図  森左京源昌胤 許傳 本庄靱負直好

亀ト傳    森左京源昌胤 許傳 本庄靱負直好

中臣祓真義鈔序  明和5年 伯資顕王家前学頭 生駒左仲昌胤 

鎮害気神法  源顕胤六十八歳謹書

和軍日岐目傳   森左京源昌胤 許傳

鎮魂祭行事 有図 全  白川資顕王家 菅原雅直

神学入式 坤  森左京源昌胤誌之 菅家雅直厳書誌之

神学入式 乾  本庄雅直謹書寫 (雅直が京都へ行ったときに写したもの。我が家の教訓にすべしと直珍76歳が記す)

御即位 器図  森左京源昌胤 許傳 本庄靱負直好

□初棟上傳  森左京源昌胤 許傳 本庄靱負直好

日本書紀 神代経緯貫義  森左京源昌胤謹改書 許傳 本庄靱負直好

神代経緯統上日 首尾  本庄雅直蔵書

神学須知   森左京源昌胤 再傳 本庄為之進直好

伯家行事傳  森左京源昌胤 許傳 本庄靱負直好

伯家行事傳 坤  筆書き 蔵書

伯家行事傳 神符守札 下  森左京源昌胤謹写 許傳 本庄靱負  中村庄之助十六歳写ス

伯家神符守札傳 坤  筆書

神道運占   森左京源昌胤 本庄靱負源尚好  明和2年 直好

伯系女王記 全  森左京源昌胤 許傳 本庄靱負直好

諸神祝詞祓 全  寛政4年 神伯門下 富士山 御師 

和軍傳 天  森左京源昌胤謹書 梅谷大炊菅原源直義写

和軍弓前鳴弦傳(日杵目鳴弦傳) 森左京源昌胤 許傳 文化10年 菅原雅直六十九歳 謹書

厚顔抄   天明2年 源顕胤六十八歳再写 享和元年 渋江源照只四十二歳寫之 本庄直哉持

隋見摘此 全  森左京源昌胤  明和2年 直好

墨色傳   森左京源昌胤  明和丙□(1766年)許傳 本庄靱負直好

神道太眞□傳(神代相傳之 太眞□之傳 臼井雅胤)  森左京源昌胤 本庄靱負源尚好

神代紀 下巻  宝暦12年 森左京源顕胤 (日本書紀 巻第二 伯家に伝わるもので改正?)

神代紀 上巻  宝暦12年 森左京源顕胤 (日本書紀 巻第一 伯家に伝わるもので改正?)

神代紀 下巻  宝暦12年 森左京源顕胤 (日本書紀 巻第二 伯家に伝わるもので改正?)明和2年 本庄為之進直好

神代紀 上巻  宝暦12年 森左京源顕胤 (日本書紀 巻第一 伯家に伝わるもので改正?)明和2年 本庄為之進直好

活心私紀序論  専鉾子解書

俗神道大意 一  平田先生講説 門人等筆記

俗神道大意 二  平田先生講説 門人等筆記

俗神道大意 三  平田先生講説 門人等筆記

俗神道大意 四  平田先生講説 門人等筆記

 

神代秘考(神代上巻講義秘考一から八、下巻九から十)

断易摘要補 乾

断易摘要補 坤

人相十二宮傳  文政2年3月吉日写之

神道日岐目鳴弦大事 乾

神道日岐目鳴弦大事 坤

臨講議 大八州 天神 天霧 四 

臨講議 一女三男 五

蚕養育手鏡  寛政

神代義解

古文眞寶 乾  延享元年 本庄為之進菅原雅直

神道大意 中臣解(吉田神道)

祇権衡録 上 本庄靱負 菅原直哉持

祇権衡録 次上 本庄靱負 菅原直哉持

祇権衡録 中 本庄靱負 菅原直哉持

神代布登磨爾傳 全

和軍弓前傳(氷岐女鳴弦)

神道蚕目鳴弦大事

古道大意 上  本庄静衛所蔵

古道大意 下  本庄静衛所蔵

 

 

 

 

 

白川家の古文書が多く残されています。特に森昌胤(顕胤)のものが多いです。

●白川伯王家(白川家)について

白川伯王家(しらかわはくおうけ)、又は白川家(しらかわけ)とは花山天皇の皇孫の延信王(1025年/清仁親王の王子)から始まり、古代からの神祇官に伝えられた伝統を受け継いだ公家である。皇室の祭祀を司っていた伯家神道(白川流神道)の家元

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B7%9D%E4%BC%AF%E7%8E%8B%E5%AE%B6

「また神祇伯に任ぜられると某王と称することを許され,その女は女王と称した特異な家である。伯家が王を称することを許された理由は,朝儀において王を称するものが必要であったからである。たとえば,天皇の伊勢神宮への奉幣は王が使者となり,天皇即位礼のとき,高御座(たかみくら)の御帳を褰(かか)げる2人の女性のうち,1人は女王であることなどがそれである。」

 

寛文5年(1665年)に発布された諸社禰宜神主法度ではその第三条にて無位の社人が白張以外の装束を着用する際には吉田家の裁許状を要する旨が規定され、これにより吉田家の支配下に入る神職が増えたようです。

 

●白川家改名について

地方の神社などに対して、神祇伯の職掌として白川家が重要だと考えていたものに「国名呼名」改名や神道伝授があります。例えば神職を「山城」等の「国名呼名」に改名させるという行為は、宝暦八(一七五八)年の朝廷見解でも認められており、白川家としても「諸国之神社無位之神主井神職家業之者へ、国名呼名等被与之儀者、従古来伯家之仕来り御座候事」であると主張する事柄です。白川家に入門している者に対して行なわれたようで、「改名許状」が白川家から発給されました。改名が行なわれると、白川家から改名者所在の領主役所(寺社奉行等)に宛てて、事後報告がなされました。我が家でも、梅谷美作守直保(17代本庄美作)と名乗っていました。国名ではありませんが、我が家で多く使われている「靱負(ゆきえ)」も同じようなものかもしれません。ちなみに歴史的な意味は、律令制度の衛府の官人で、宮中を靭(ゆぎ:矢を入れる道具の一種)を背負って見回りをする者で、ゆげいと読む、と言うことです。いわゆる官職名にあたるのかもしれません。

 

徳川時代後期の神道と白川家(幡鎌一弘)

https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3471/OYS001202.pdf

神祇伯白川家の神社管掌と武家伝奏・職事(藤井祐介) 

https://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/3477/1/kinsei_2_95_118.pdf

  

当家は、代々京都の白川家や吉田家より神職の免 許を賜っていました。白川家は、天皇家直属の神職の家で、その神道を白川神道または伯家神道と言われています。江戸時代の後期には、特に後桜町天皇(在位 1763~1770年)に使えた女官であった玉瀧院(鍾子/アヤコ)様とは親睦が深く、数多くの遺品が残っています。玉瀧院(鍾子)様は、正親町公明(正 二位、権大納言)の二女でありました。日本の最後の女帝であった後桜町天皇の「後桜町皇帝元旦御末廣」なども当家に残っています。白川家 は、千年余り続いた神職の名家ですが、昭和の代で断絶。現在、江戸時代の白川家学頭であった森昌胤のお墓もここ河口に残っています。河口や吉田の御師たち の大先生だったようです。

 

御師たちは、苗字・帯刀も許されるとともに、薬学や人相学・陰陽道、和歌や書道・茶道などもたしなむ文化人でした。河口は、古くは甲斐の国の3駅の一つと 言われ、交通の要所でもありました。さらに古くは、不老長寿を求めて中国からやって来た秦の始皇帝の家来であった徐福が住み着いた所とも言われ、祖先は帰 化人との言い伝えもあります。こんな山の中の田舎のわりには、御師たちは江戸や京都にも行き、また地方の檀家がいる村々などへも行ける封建時代にあって は、自由な身であったということができます。                                                                                                                                                            

天照大神の掛け軸

森昌胤で検索をしたところ、「一枚の世界」というサイトに天照大神の掛け軸のことで面白いことが書いてありました。

出どころは、「一枚摺の世界」学苑 第八八一号 2014年 です。

 

この一幅の上部、赤い日輪のなかに現れるのは、みずらに結った髪を美しい勾玉で飾り、千の矢の入る靫ゆき(矢筒)を背負い、弓と鏑矢を握り、勇ましいすがたで出で立つ日神天照大神である。尊像の下には『日本書紀』神代上第六段の本文を掲げつつ、白川神伯家に伝来した清仁親王感得の尊像を模写し彫刻したものであるから慎み怠ることなく敬い礼するようにとの詞が、学頭源顕胤(森昌胤)により記されている。その銘文からは、本図が親王感得の尊像として学頭源顕胤の名のもとに流布し、掛軸に仕立てられ、礼拝されたものと知られる。
同様の尊像を用いた絵札(御影や神号)が、白川神道と関連ある神社や御師のもとから見いだされており、管見に入った分でも六例を示すことができる。
①山梨県河口湖町伊藤勝文家蔵[日神之尊像1]
②河口湖町梅谷(本庄)家蔵[日神之尊像]
③河口湖町無戸室浅間神社(船津胎内神社)[富士山旧胎内2]
④愛知県豊橋市安久美神戸神明宮社家司家所蔵[天照大神3]
⑤千葉県船橋大神宮[天照大神]
⑥静岡県伊豆山神社[伊豆国伊豆御宮御神号]
このうち①②の銘には「日神之尊像者清仁親王正統神伯白川資顕王家前学頭源顕胤伝来」とあり、④には「右以二伯家伝来親王感得之真図一令模写者也」と見え、これが「日神之尊像」とも呼ばれながら、学頭源顕胤伝来清仁親王感得の図として重んじられていたことを確認できる。
白川伯家は、花山天皇の皇子清仁親王の御子延信王が永承元年(一〇四六)に神伯に任ぜられたことに始まる神道の家である。江戸時代中期、幕府公認のもとで強い権勢を誇った吉田神道に対抗し、伯家は神道説の研究に力を注ぎ勢力拡張と組織化を図る。そこにおいて大きな功績を残したのが、学頭源顕胤(森昌胤)であった。神伯資顕王のもとで宝暦十年(一七六〇)に学頭に補任された顕胤は、『神道通国弁義』などを著しながら、特に富士北麓の御師たちにむけて熱心な教導活動を行い、門人となった御師たちから篤く慕われた4。富士河口に伝わる①~③の尊像はその証しといえよう。

・・・伯家が正統なる神道を伝える家であることの主張と呼応し、吉田神道に対抗する有力な図像となる。

左の御影(みえい)は、掛軸などにも利用されているもので、天照大神と言われています。我が家には、版木(木版)で保存されています。

一説には、 この図は森顕胤の名のもとに流布し、掛け軸となって礼拝される?

 白川神道の普及に一役かったとも言われている?

河口の御師、秦由清謹書。左の御影の下に書かれた掛軸。


古文献などの発見の経緯

我が家の母屋は、1800年前半に建てられたもので江戸時代からのものが割と残っておりました。また、昔からご先祖さんは古文書なども大事に残していたようです。曽祖父の本庄静衛なども「川口村の口碑・資料」を書き残し、祖父の魁平は「川口村の古事志」などを書き、父の雅直は大学ノ-トに古文書などや我が家の家系なども整理して書き残しておりました。

さらに、1997年には学習院大学の高埜利彦先生による甲州史料調査会によって、川口村の富士山御師の研究の為の調査が行われ、我が家に残る古文書などの史料目録も作成していただきました。2009年には、山川出版から「富士山御師の歴史的研究」と題して、川口御師が初めて学術的に研究された文献となって世に出ました。

また、2013年には山梨県立博物館による調査が行われ、甲州史料調査会では扱われなかった古文書などの文書目録が作成されました。2014年には、富士河口湖町による国庫補助事業として「河口の稚児の舞」調査委員会の調査があり、さらに未整理の古文書などが整理・記録されました。「河口の稚児の舞」は2年後、国の無形民俗文化財として登録されることになりました。その時の調査のかいもあって、我が家も富士河口湖町の有形文化財に指定されることになりました。

 

実は、私が神官の資格を取り河口浅間神社に奉職するようになったのも、我が家に訪れた方との出会いからでした。今から8年半ほど前の10月、ちょうど母屋を展示場にして未だ日の浅い時でした。たまたま展示場に居た時に神社へお参りした方たちが、我が家の方へ向かって来られました。いろいろお話をする中で、「白川神道を研究されている方がいます。こんどご紹介します。」から始まりました。そしてその方と先生達とのお付き合いが始まりました。ある時、「本庄さん、神官の資格を取ったら?」と言われ、「え?」という感じでした。「資格を取るには65歳までよ」と言われ、ちょうどその時、私は64歳。あと数ヶ月で65歳。神主なんて夢にも思っていませんでした。人との縁、まためぐり合いと言うものは不思議なものですね。翌年、国学院大学で行われた神主養成講座を受講し神主の資格を取りました。

 

また、白川神道関連の古文献の中からいわゆる神代文字で書かれた写本が見つかったのも、白川神道を研究されている先生が来られるというので、まだ残された古文献はないかと母屋の二階の屋根裏を探したところ未だ少し書籍類が出てきました。今まであったものと新たに見つけた古文献をその先生にお見せしたところ、白川神道の古文献の中にいわゆる神代文字で書かれた文献を見つけられました。先生は、これはひょっとして神代文字(ホツマ)かもしれない、というのです。私は知りませんでした。日本には、漢字が伝わる前に既に和文字があった?!漢字の伝来で封印されていた和文字が江戸時代に発見された?古事記・日本書紀は、この『ミカサフミ』を元にできたのか?そして、梅谷(本庄)から江戸時代の写本が出てきた⁉この神代文字(ヲシテ)が、古代縄文時代にあったのか?これからの研究が待たれます。

2013年4月には池田満先生が 『よみがえる縄文時代イサナギ・イサナミのこころ』(展望社)という書題で、『ミカサフミ ワカウタのアヤ』を出版していただきました。

山口剛史、元皇学館大学(助教)の先生との出会い

ちょうど7~8年ほど前、白川神道を研究されている先生が皇学館大学の山口剛史先生を我が家に連れて来られました。我が家に数多くの白川家の古文書があることを知り来られたのでした。それは「甲斐の神道」深山忠六著(神道学会発行/代表者 千家尊宣/昭和45年)に書かれてあったのです。確か翌年には、KAKEN(科研費)から研究費を468万円捻出されました。タイトル「神祇伯白川家と富士山御師本庄家史料―伯家神道の実像と虚像に迫る多目的アプローチ」。研究期間は3年。そんな時に大学から1年間のロンドンへの留学が決まってしまい、研究は帰国後となりました。。未だ住むところも決まっていないとのこと。ちょうどロンドンには私の息子が結婚して居るので、強引に息子に頼み山口先生を一緒に住まわしてもらうことにしました。留学先は偶然にも息子の奥さんが務めている大学でもありました。奇遇です。ところが、8月にロンドンへ行かれ12月にロンドンで急死と言う不幸にあってしまいました。人間の運命というものは、一寸先は分からないものなのですね。先生が日本を発つ前にセレクトされた白川関係の本は今でも保管しています。「誰にも渡さないでね」との先生の言葉を守っていますよ。残念です。山口先生が「大切に保存するための書庫を作ってあげる」と言われたことを思い出します。そんな悲しい思い出もあるので、今後も白川関係の本は、大切に残していきたいと思っています。

富士山御師および白川神道に関する参考資料

富士山御師の歴史的研究 高埜利彦監修 甲州資料調査会編 山川出版社 2009年

富士山御師 伊藤堅吉著 図譜出版 1968年

富士浅間信仰 平野榮次編 雄山閣出版 昭和62年

河口湖町史 菅沼英雄著 河口湖町役場 昭和41年

富士山の祭神論 竹谷靱負著 岩田書院 2006年

富士信仰研究 第三号 富士信仰研究会 平成14年 (白川伯家の富士山御師への教導活動 -学頭 森顕胤を中心として-)

明治維新と甲斐の勤皇 松尾馨編集 山梨県神社庁 昭和46年

甲斐の神道 深山忠六著 神道学会発行/代表者 千家尊宣 昭和45年

川口村の古事志 本庄魁平著 昭和56年

川口村の口碑・資料 本庄静衛監修 解読・解説/西田かほる 2002年

白川家門人帳 近藤喜博編 清文堂出版 昭和47年

富士山御師の檀那所と御山参詣 山梨県立博物館 平成28年

河口集落の歴史民俗的研究  山梨県立博物館 平成26年

河口の稚児の舞 国記録選択無形民俗文化財調査 富士河口湖町教育委員会 平成28年

富士御師のいた集落 河口湖町シンポジウムの記録 甲州資料調査会 1997年

川口(河口)御師の活動ー御師集落と檀那場 河口湖町町民講座 令和4年

河口湖の古文書と歴史 その1 甲州資料調査会調査成果報告会 2004年

河口湖の古文書と歴史 その2 甲州資料調査会調査成果報告会 2005年 (川口御師の江戸城年始あいさつ)

本庄八重家文書(資料目録・現状記録) 甲州資料調査会 1997年

本庄元直家文書目録 山梨県立博物館 2013年 (河口御師の変遷)

本庄元直家文書  富士河口湖町「河口の稚児の舞」調査委員会 平成26年 

富士吉田市歴史民俗博物館研究紀要 第二集 2019年 (吉田御師の家に伝わる奉納額)

富士山吉田口御師の住まいと暮らし  富士吉田市教育委員会 平成20年 (外川家住宅学術調査報告書) 

富士河口湖町 古の小径(集成版) 富士河口湖町教育委員会 平成21年 (森顕胤墓碑を訪ねて/川口御師の檀家回り) 

富士信仰と富士講  三浦家吉著  甲文堂出版部 昭和56年 (御師制度の確立)

日蓮聖人の歩まれた道  市川智康著  水書坊 1981年 (本庄家 河口陣屋梅屋)

富士信仰研究 第三号 富士信仰研究会 2002年 (白川伯家の富士山御師への教導活動/竹谷靱負)

甲斐国志草稿/森嶋家文書  森嶋家蔵甲斐国志草稿刊行会  昭和51年 (梅屋采女の日蓮との出会い)

御師弥五郎/お伊勢参り道中記  西條奈加著  祥伝社文庫  平成26年

徐福ロマン  羽田武栄著  亜紀書房  1993年  (川口富士浅間神社と秦屋敷)

真説・徐福伝説  羽田武栄著  三五館  2000年  (川口御師由来)

富士博物館所蔵文書/富士河口湖町古文書目録 第4集  富士河口湖町教育委員会  平成24年  (大梅谷関係資料)

富士博物館所蔵文書/富士河口湖町古文書目録 第8集  富士河口湖町教育委員会  平成30年  (白川家・吉田家神祇道争論

明治記念學會紀要/近代日本の教育と伝統文化  明治聖徳記念学会  平成22年  (明治維新期の鎮魂祭/山口剛史)

川口村御裁許状写  本庄魁平  (宝暦10年10月13日 江川太郎左衛門御代官へ提出した吉田家・白川家紛争の手紙の写し)

富士山北室御師家系譜写  本庄魁平 (大嵐村蓮華寺過去帳ヨリ写ス)

一枚摺の世界―その小釈の試み(2) 天照大神画像  学苑 第八八一号 2014年 (この図は森顕胤の名のもとに流布し、掛け軸となって礼拝される)

誰が天照大神を女神に変えたのか  武光誠  PHP研究所 2017年 (伊勢神宮の御師の意欲的な活躍) 

吉田神道の四百年  井上智勝著  講談社 2013年 (白川家に集う神職)

伯家神道の道統  永川辰男著  図書出版 令和4年 (江戸時代の白川家) 

本庄家古文書目録  本庄雅直  ノート3冊  1961年・1962年

山梨県山岳信仰遺跡詳細分布調査報告書  山梨県教育委員会 2012年 (富士山信仰の歴史と遺跡) 

菊田日記③  富士吉田市歴史民俗博物館資料 第4集 令和4年 (吉田の御師の生活)

他者と境界  春秋社 2015年 (女人禁制ー富士登拝をめぐって) 

富士山頂における神仏分離―宍野半と小沢彦遅を中心に―  永田昌志 國學院大学神道研究集録32、1-27 平成30年3月 学会発表

近世期における富士山信仰とツーリズム  松井圭介/卯田卓矢  地学雑誌  2015年

第19回文化資源学フォーラム 報告書   冨士と旅  東京大学大学院人文社会系研究科文化資源学研究室  2019年

導者登山と御師  富士吉田市史 通史編 第二巻 近世  平成13年

在米 甲州人奮闘五十年史 廣瀬守令著 南加山梨海外協會 昭和九年五月十五日発行

 

本庄家の家系

大久保賀平次  祖成公 祖先34世ノ孫 (弘安年度まで大久保に住む)

1.梅谷采女 1290年没 弘安5年(1282年)9月12日、日蓮と謁見。(甲斐国志による) ※正安年度、故アリテ本庄姓トナル                               

2.本庄靱負(ゆきえ) 1329年神職

3.為之進  1375年神職

4.美作   1394年神職

5.美治   1429年神職 1434年没

6.直助   1430?~1443年没

7.次太夫  1445?~1474年没

8.采女   1467?~1520年没

9.ハ左衛門  1478?~1527年没

10.美作   1495~1544年

11.岐七郎  1514~1616年没?

12.牧夫   ~1560年没

13.傳次   1530~1572年没

14.九内介  1557~1581年没

15.伊予守  1575~1610年没

16.遠江   1606?~1639年没

17.美作(直保) 1600~1679年没

18.武衛   1629~1664年没

19.直賢   1651~1740年没  ※友谷家から養子 梅谷治郎左衛門 1744年没

20.直房   ~1769年没

21.雅直(ノリナオ) 1741~1828年没

22.牧夫   1781~1862年没

23.直哉   1827~1899年没

24.静衛   1852~1918年没

25.魁平   1892~1984年没

26.雅直   1915~1991年没

27.元直   1949~

川口御師の経済活動

御師の中には、檀家の拡大・檀那場の売買などにより力をつけていくところも出てきた。1600年代になって、御師の屋号に大をつけるようになった。梅谷においても、大梅谷を名乗る分家が出てきた。(大梅谷は、1282年9月12日に本庄采女が日蓮聖人とお会いし教化され、真言宗・大同山御堂寺の住職だった弟を会わせ日蓮宗に改宗。現在、大嵐にある蓮華寺。その弟の流れである。)1600年代は、大梅谷の檀那場の売買が多く羽振りがよかったようだ。年季奉公に対して金を貸すなど、金貸し的な事も行っていたようだ。(要考察) 古文書の中で、金銭の貸し借りのものが多く残っている。今も昔もそうだが、力のあった者のお墓は墓石も大きい。(富士河口湖町古文書目録 第4集 冨士博物館所蔵文書 平成24年12月 富士河口湖町教育委員会)

 

上記資料は、富士河口湖町古文書目録 第4集 冨士博物館所蔵文書 平成24年12月 富士河口湖町教育委員会による。

川口・吉田御師の檀那場

下記の川口と吉田御師の檀那場は、天保9年(1838年)と天保12年(1841年)に御坂峠から川口に入った導者から調べた檀那所の分布です。この頃、川口村に入る所には、関所らしきものがあったようです。江戸などから来る道者たちは、吉田から登るので、この数には含まれていません。

天保9年(1838年)は「富士登山人改帳」(本庄邦久家文書)と天保12年(1841年)は「富士登山道者人別改帳」(山梨県立博物館蔵)より作成。

山梨県立博物館 調査・研究報告12 「富士御師の檀那所と御山参詣」平成24年3月25日発行

 

 

本庄家年表

菅原道真公

我が家に残る自画像?

古文書などには菅原や菅家を名乗っていました。なぜ菅原を名乗っていたかの真偽は分かっていません。家紋も同じ梅鉢です。

17代 本庄美作(直保)

1600~1679年没

21代 本庄雅直(ノリナオ) 1741~1828年没

23代 本庄直哉   

1827~1899年没

24代 本庄静衛  

1852~1918年没

25代 本庄魁平   

1892~1984年没


榎の地蔵

 

目の悪い方は今でも信仰?

お地蔵さんは、京都を向いて建てられた?今は、富士山を向いています。


1282年9月12日  本庄采女が日蓮聖人とお会いし教化され、真言宗・大同山御堂寺の住職だった弟を会わせ日蓮宗に改宗。現在、河口湖の西・大嵐に現存する持名山蓮華寺

           文化11年(1814年)に編纂された甲斐国志にも記載されている。

1582年      本庄家の祖は、武田勝頼の家臣であった。片目を矢で射抜かれた状態で川口に到着したが、勝頼の自害を知り我が墓地にこの鎧、兜を埋めてくれと頼み、自害す。今に残る「榎の地蔵」は、この跡であると伝わる。(一説) もう一説は、我が家で奉公に京都から来ていた童女が、京都に向かって帰りたいといつも泣くあまり、目が見えなくなったという言い伝えもあり目の神様として残っている。一度このお地蔵さんは盗まれたことがあったようで、今は、しっかりとコンクリートの土台に守られている。

           以後、富士山御師となり、12軒に発展

1605慶長10年   大山口登山について河口12坊連名書

1606慶長11年   大火により、宮下坊のご神体を遷す(川戸頭の天神様)          

1626寛永3年   河口村天神峠東天神申請書宮主 梅谷采女

1663寛文3年2月 本庄靱負武衛 三浦遠江へ廻檀(?) 大名廻檀記録(松平、真田他)?

1664寛文4年   本庄武衛直寛の「祝詞文集」

           武衛没(1629~1664)

1665寛文5年   本庄美作直保の「ゆつり状」

1669寛文95月 本庄美作直保の「ゆつり状之事」

1673延宝元年   本庄美作の「御水帳」

1677延宝5年   本庄氏直明「祝詞祭式」、「上津祓、下津祓」一巻写し

1679延宝7615日 本庄美作没

1697元禄10年   本庄靱負「諸神勧請、神供祝詞、自生祝詞」

            この頃、川口家110人となり、 各家に社を設けて、富士を祈祷する

1702元禄15年   本庄利左衛門「ゆつり状之事」証人八左衛門、同名二郎右衛門?

1704宝永元年   梅谷伊予守菅原(本庄)貞堅 神道裁可状を吉田家より受ける

1706宝永3年   梅谷大和守菅原直昌(川口頭天神祠官) 神道裁許状を吉田家より

           売渡申檀那手形之事 金小判拾五両三分 千五百軒(50年季) 梅谷靱負、梅谷次郎左衛門  売主 駒谷右近

1707宝永4年    「売渡し申旦那手形之事」(2700軒)売主駒谷右近 靱負殿

                        証人次郎右衛門殿

1711正徳元年    「替地仕候手形事」屋敷主 靱負 同次郎右衛門采女殿

1712正徳2年    神道裁許状 本庄保教(采女)に

              四組木綿〇〇強之事 神祇管領より

            本庄美作が朱徳大神の神号を願う 白川殿御役所に

1713正徳3年   「中臣祓」本庄直賢に授与 卜部朝臣より

1718享保3年    梅谷伊予守菅原貞吉(川口天神祠官)に神道裁許状

1729享保13年    「護身神法」本庄靱負直賢

1732享保17年    「神前神楽次第」 本庄貞吉

1736元文元年     「我一生内夢想」本庄靱負直賢

1740元文5年     「諸国檀那坊附帳」本庄靱負直賢

             31日・本庄靱負直賢没(1646年生)94

1746延享3年     本庄監物ほか6名が御師由来書を幕府に提出

1751宝暦元年     『神道大秘伝書』

1759宝暦9年     河口御師98人白川家入門

1760宝暦10年    宝暦の争議、白川家、吉田家免許につき評定所江川太郎左衛門代官へ提訴(1013日、宮下伯耆、三浦外記ほか108名が)

             森昌胤が白川家学頭に就任

             臼井雅胤は、いつ河口に来たのか?

1761宝暦11年    富士山檀那帳に本庄(菅原)靱負直房の名

1765明和2年     大大神楽目録 (本庄直好)

1769明和69月   本庄(菅原)靱負直房没

1771明和8年     御年貢納帳

1773安永2年     河口御師名寄帳に十二坊大梅谷本庄靱負監物の名

1774安永3年     富士山師職本庄靱負直(尚)好が白川家に起請文を差し出す

1775安永4年     森昌胤、河口と吉田に来訪、神祇の道を講義す

             『神拝作法相伝』本庄靱負直好

1776安永5年     母屋を建築(1809年に焼失、門だけ残る) 現在残る母屋はその後に建てられたもの。

1779安永8年     本庄直好、「73歳之書上」、登山帳に本庄雅直の名

 

1782天明2年     蟇目具次第 一巻 中納言雅富王直伝

1784年天明4年    森昌胤、7月、江戸から河口に来住

1785天明5年     森昌胤、74日河口で病死。70歳。死骸は吉田の西念寺に葬る(現在も墓碑あり)先祖は佐々木盛綱の血統、代々医者の家系で丹波の生まれ

1786天明6年     本庄雅直、資延王に謁見

1790寛政2年     資延王(神祇管領長上)より榛名山の神号を受ける

             本庄雅直(隠岐太夫)

1792寛政4年      本庄隠岐雅直 神道裁許状を享ける 卜部朝臣より

1794寛政6年     神祇伯雑掌より烏大明神の神号を受ける

1795寛政7年     神道裁許状をうける、本庄(菅原)雅直、風折烏帽子、紗狩衣を神祇管領卜部朝臣より享ける

1798寛政10年     『護神身法』、『神拝作法相伝』を写す、本庄雅直

1802享和2年     神祇伯資延王が富士山御師本庄靱負雅直に「神拝之次第」を伝授、資延王の直門に入る

1804文化元年     神祇伯資延王が「神道霊符神祭式」を伝授。富士山北面御師本庄隠岐太夫雅直に、

1805文化5年     富士山大大神楽行事伝、身曾岐祓図式(本庄静衛写し)

1807文化4年     本庄雅直が三種大祓願いを提出、御本所に

1809文化6年     宗門帳に、川口村名主隠岐雅直65歳、妻63歳、牧夫28,鉄弥21歳の記述

             10月出火、86軒焼失(門柱は残る、1800年建築)

1818文政元年     神道裁許状を授与、本庄美作菅原珍直(牧夫)に、「六根清浄大祓」を授与

1827文政27年    本庄隠岐雅直615日没

1831天保2年     伊勢内宮に出入差上申一札之事、山田奉行所に提出

1833天保4年     後桜町天皇の女房、玉朧院鍾子(あやこ)より富士浅間大神へ祈願の依頼(病気回復)御撫物と御衣を入れた箱あり

             富士山内役銭出入ノ件(一人122文)

1841天保12年    本庄靱負「一儀之事」(秘伝伝授につき、起請文)

1842天保13年    本庄牧夫、吉田家の狩衣を受け着用、裁許状写

1848嘉永元年     大梅谷の建物を蓮華寺に移築、(大梅谷監物、1893年没)

1860万延元年     本庄直哉に神道裁許状、神道管領卜部朝臣より

             また「中臣祓」、「参詣次第」を神道管領より受ける

             直哉に「継目御許状」

             家に伝わる和軍伝八巻を写し、神祇伯王殿に奉呈、

             二位資訓王殿より、賞状とご詠歌を下し賜る

1861文久元年     為取替檀家証文之事  信濃佐久郡4ケ村の檀家を譲り受ける 本庄靱負

1862文久2年      本庄靱負牧夫没(86日)

1864元治元年     衣冠着用の許状、卜部朝臣より

1865元治2年     神祇伯王家令より、本庄牧夫の霊に、「真幾雄霊神」の号を賜る、本庄美作直哉が白川家関東御役所へ訪問、

1866元治3年     本庄直哉に衣冠着用免許(卜部朝臣長上殿より)

1872明治5年     大教正に任命(3か条)

             7月、河口浅間神社の宝物と一緒に菅原道真公直筆?の掛軸を谷村役所へ提出(本庄静衛)

1873 明治6年    山梨県庁より川口村郷社浅間神社詞官を拝命(本庄直哉)

1877明治10年     士族編入願 本庄静衛より山梨県令藤村紫朗殿

1882明治15年    本庄静衛、山梨県巡査拝命(22年に免職)

1890明治23年    官社加列之願、郷社浅間神社(内務大臣西郷従道殿)

1893明治26年     本庄静衛 川口村村長臨時代理に

1902明治35年    山林五町歩を所有(うち8反を売却し、残り4町2反歩) 

            7月15日、河口12坊の渋江彦太郎より静衛あてに江戸時代の古文書の写しを郵送。(武田信玄公からの書状が多くある)

1922大正11年    富士講祝詞(訂正)富士北口本宮、実行教小教正中村信正

河口浅間神社、司社・宮司の系譜

河口浅間神社は、貞観6年(864年)の富士山の大噴火によって、翌年の貞観7年12月9日に勅命により富士山の噴火を鎮めるために建てられました。

富士山世界文化遺産の構成資産の一つです。式内名神大社。

 

貞観7年(865年) 伴真貞を祝(はふり―今の宮司)に、伴秋吉を祢宜に任じた。

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延宝6年(1678年) 宮下式部

享保14年(1729年) 宮下式部

元文元年(1736年) 宮下和泉

寛政9年(1797年) 宮下伯耆

?          宮下越中

?          宮下播磨

?          宮下宮吉(建吉)

?          宮下 博

明治6年(1874年) 宍野 半(富士山本宮浅間大社、北口本宮冨士浅間神社の三社を兼ねる。北口本宮冨士浅間神社はその当時は富士岳神社と言われていた。)

明治10年(1877年) 伴 隆榮

明治11年(1878年) 狛 俊學

明治24年(1891年) 輿石守郷

明治27年(1894年) 宮下一郎

明治29年(1896年) 狛 俊學

明治37年(1904年) 貴家筑波

大正6年(1917年) 本庄静衛

大正11年(1922年) 大額三代吉

大正13年(1924年) 中村寅蔵

昭和21年(1946年) 中村寅蔵(これより宮司と呼ばれる)

昭和22年(1947年) 伴 泰

平成5年(1993年) 高橋快言

平成20年(2008年) 中田 進 

 

河口浅間神社と北口本宮冨士浅間神社

河口浅間神社は、2015年12月9日に創建1150年を迎えました。河口浅間神社の浅間は「あさま」と読みます。一説には、噴火を意味するともいわれています。群馬県の浅間山も「あさま」と読みます。全国にある多くの浅間神社の中で「あさま」と読む神社は、他には山梨県一宮の浅間神社が「あさま」と読みます。

当神社は、貞観6年(864年)の富士山の大噴火により、翌年の貞観7年12月9日に勅命により富士山の噴火を鎮めるために建てられました。祭神は、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。安産の神様でもあります。河口浅間神社は、富士山世界文化遺産の構成資産の一つでもあります。

ただ、河口浅間神社が貞観6年(864年)の富士山の大噴火により朝廷の命令で創建されたと断定されるようになったのは、最近の話です。富士山が世界文化遺産に決まる少し前まで、約1000年前に朝廷の命令で建てられた神社として、3か所の神社が候補にあがっていました。河口浅間神社の他に一宮浅間神社、高田浅間神社。神社の創建について三代實録の中に「甲斐國八代郡」に建てた、と言うのが根拠。河口は現在、都留郡。また、江戸時代においても都留郡。他は、東八代郡であったり西八代郡。

思い出すのは、富士山が世界遺産に決まる少し前、富士吉田の市民センターで富士山に関わるセミナーがあり、その集まりに参加。その時点でも講師の先生が3案あって未だ確定していないという話をされました。その当時の行政区を調べたり、昔の古文書などを調べれば簡単なことなのに何故?と思いました。何故だったんでしょう?

もう一つ、何故と思うことがありました。

富士吉田の冨士浅間神社が北口本宮と呼ばれるのか?江戸時代の後期から河口と吉田では言い争いがあったようにも聞いています。我が家に残る江戸時代の古文書や版木などにも、河口浅間神社を北口本宮と呼んでいたものが残っています。最近、新しい発見がありました。近所の人から、河口浅間神社の歴代の宮司さんの名前を知りたい、というこうでした。社務所へ行き調べたところ明治時代の初代宮司が宍野半(ししのなかば)という名前がありましたが、いつからいつまでのところが不詳となっていました。何故?調べている中で、「富士山頂における神仏分離=宍野半と小沢彦遅を中心に=」永田昌志著という研究論文がありました。「國學院大学神道研究集録32、1-27 平成30年3月 学会発表」。その中に、宍野半が明治6年に駿河国浅間神社(静岡県/富士山本宮浅間大社)の宮司になるとともに、上吉田村冨士岳神社(現在の北口本宮冨士浅間神社)と川口村浅間神社(河口浅間神社)の三社の宮司と祠官を兼ねたとありました。

宍野半(1844~1884年)明治時代前半の神道家。扶桑教の教祖。弘化元年(1844年)9月9日生まれ。薩摩国薩摩郡隅之城村(鹿児島県川内市)の郷士休左衛門・加女の次男。幼にして日蓮宗のお寺に預けられ、のち平田鉄胤の門に入り、国学・神道を学ぶ。明治5年(1872年)教部省に出仕。同6年官を辞し、富士山本宮浅間大社の宮司となる。明治9年の春、扶桑協会を設立、本宮の宮司を辞任し協会長となる。明治17年5月13日41歳で急逝した。

このレポートの中に、現在の北口本宮冨士浅間神社についての記述がある。「古くは富士浅間大菩薩、同大明神から富士浅間社となり、慶応2年(1866年)冨士嶽神社に改称。明治5年郷社に列し、明治12年県社に昇格。明治13年冨士嶽神社を冨士浅間神社と改称。昭和21年現社名・北口本宮冨士浅間神社に改める。山梨県神道青年会編『山梨県神社誌』(山梨県神道青年会 昭和60年)。」正式には戦後、上吉田の冨士浅間神社が北口本宮になったのかが分かった。しかし、江戸時代から河口と吉田で北口本宮をめぐって言い争いがあったのは、江戸時代後半から富士講による参拝者・登拝者の増大=力関係が影響しているのではないか?河口と吉田御師の力関係にも現れ、河口御師は次第に衰退していったようだ。

 

 

 

 

ふじさんミュージアムさんからの資料提供

富士吉田市教育委員会 歴史文化課
(ふじさんミュージアム) 篠原 武(しのはら たける)様より貴重な資料をいただきました。
住所 〒403-0032 
   山梨県富士吉田市上吉田東7-27-1 
   ふじさんミュージアム

①檀家の数、エリア
 吉田口は、関東地方一円と静岡県と福島県に檀家が広がっていました。1867年の記録では、講がある村数は約9,000ヶ村とあります。

②檀那場の価格及び販売実績
 →上吉田の梅谷家(大梅谷)は、天保6年(1835)に、御師佐藤式部(大玉屋)から4,500軒の檀家を金15両と引き換えに手に入れています。大玉屋は、この15両を15年で梅谷家に返済する約束になっていました。

③御師の収入額
 →御師であり医師でもあった橘屋(田辺家)の元禄11(1698)年の収入は、56両3分と16貫350文で、薬代が2両3分、大晦日の残金は16両3分、元禄14(1701)の檀家廻りの収入が金19両1分あまり、薬代金は14両1分で、合計額は30両以上となっています。なお、橘屋の檀家数は、安政5(1858)年に61ヶ村で、上吉田の御師としては平均的な数でした。なお、檀家数が1番多い上文司家は、1,300ヶ村です。

④1泊の費用
 坊入と呼ぶ宿泊代金は、外川家に天保14(1843)年に宿泊した人の記録によると、約400文になります。

⑤富士登山者の数
 吉田口は、約8,000人とされます。文化11(1814)年の記録によれば、9,598人が吉田口から登っています。川口村については、文政10(1827)年の通過者が2,030人、天保9(1838)年の通過者が1,420人、天保12(1841)の通過者が1,762人とあります。なお、庚申御縁年である寛政12(1800)年の記録によれば、吉田口は23,000人、川口村は1万人とあります。

⑥檀那檀那場の多いところの管理について
 御師橘屋の場合、譜代手代や息子に檀家廻りを任すことも多くあるため、複数人で手分けをしていたのは間違いないようです。

⑦宿泊の予約
 手紙で頻繁にやり取りをしており、博物館でも主に近代のものですが、御師と富士講がやり取りした手紙を多数所蔵しています。

今後は、河口の資料を集めたいと思っています。