プロフィール

自己紹介:本庄元直

住所:山梨県南都留郡富士河口湖町河口1129(河口浅間神社前)

当家は、千年余り神職・御師として続いてきました。 私は、現在、27代目となります。

2014年3月、神官の資格を取得したしました。

河口浅間神社(かわぐちあさまじんじゃ)は、富士山世界文化遺産の構成資産のひとつになっています。

 

河口浅間神社は昨年、創建1150年を迎えました。

●河口浅間神社ホームページ

http://www.asamajinja.or.jp/

https://www.facebook.com/kawaguchi.asamajinja/

●河口浅間神社・稚児の舞ダイジェスト

https://www.youtube.com/watch?feature=youtu.be&v=lwtzl1BCD7U

 

河口の稚児の舞(山梨県指定無形民俗文化財)

 

河口浅間神社に伝承する神事芸能で、毎年4月25日の例大祭(孫見祭)と7月28日の太々御神楽祭(おだいだい)で奉納されてきました。「御幣の舞」、「扇の舞」、「剣の舞」、「八方の舞」、「宮めぐり」の五番からなり、孫見祭の時は、「御幣の舞」から「剣の舞」の三番だけが奉納されています。元々は江戸時代に河口の御師が奉納していた太々神楽のうち、「神子の舞」が形態を残したものと考えられています。

舞手(稚児)は、河口地区の7~12歳までの少女が担います。

河口の稚児の舞は、平成25年(2013)に文化庁長官から「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」に選択されました。(「富士河口湖町の構成資産・構成要素と参詣道」より)

 

河口の稚児の舞は、国の「記録作成等の措置を講ずるべき無形の民俗文化財」に選択され、平成二十六年度から国の調査事業が行われ、今年の3月末に報告書が出来上がりました。その中で、数多くの当家の古文書などが参考になっています。太々御神楽は江戸時代前から御師の家で行われていたようですが、太々神楽のうち、「神子の舞」が明治30年ごろから稚児                                               として河口浅間神社で行われるようになった模様です。



  • 当家に保存されていた冨士山大々御神楽図。江戸時代の御師が御師の家で行っていた最後の段階の古い形態の太々御神楽の様子を描いた絵。天保頃から幕末頃の絵ではないかと言われています。古文書では寛文2年(1662)には、古い形態の太々御神楽は行われていた。(冨士山大々御神楽行事伝 全)

現在残っている資料では、本庄しか乃(右端/静衛の弟の子供)が明治30年ごろ(7歳の時)から始まった1人目の「稚児の舞」奉仕者です。真ん中の写真左、5人目、鈴木すわ。後の魁平の妻。左端は28人目、魁平の長女、初枝。現在、奉仕者は161人目です。


河口浅間神社は、昨年12月9日に創建1150年を迎えました。

当神社は、貞観6年(864年)の富士山の大噴火により、翌年の貞観7年12月9日に勅命により富士山の噴火を鎮めるために建てられました。

祭神は、木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。安産の神様でもあります。

河口浅間神社は、富士山世界文化遺産の構成資産の一つでもあります。

樹齢1000年以上の7本の杉が、パワースポットとしても人気です。

 

●秋山眞人(3)「河口浅間神社」オススメのパワースポット。(You Tube)

https://www.youtube.com/watch?v=Xf436xhcL0A

ユリ・ゲラーもやって来た?河口浅間神社で秋山眞人氏と対談したことがある、とYou Tubeで紹介。2分56秒ごろ。

2017年1月17日。45年前にユリ・ゲラーの超能力を実験していたCIA

、その結果を公開しました。ユリ・ゲラーは本物だった?

 

河口浅間神社境内図です。

 

・太ケイに囲まれた部分が、世界文化遺産富士山構成資産の登録範囲です。

・中央右、①~⑦までが山梨県指定天然記念物の河口浅間神社の7本杉。樹齢千年以上の大樹です。

・図の左上が山宮社です。その少し上より富士山が眺望できます。昨年夏、巨大な神鏡台も祭られました。

・手水舎の横より山宮社までが浅間古道として、富士登山の擬似体験(富士塚)を楽しめる散策路です。下山は、五合目の栃の木の所を右に下り7本杉や諏訪社などをお参りする約500mほどの

コースとなっています。

・最近人気の「連理の楓」は、拝殿手前の階段の右側にあります。池の傍にあります。二本の木が枝の部分で一本に。男女(夫婦)が仲むつまじい事の中国のたとえ。(白居易の『長恨歌』)

・拝殿の左側には、明治時代の初めに合祀された神社が祭られています。その中には、学問の神様である菅原道真公も祭られています。

・参道中央には、波多志神の祠がございます。波多志とは、中国の秦氏(はたし)のことです。河口では古くから秦氏伝説・徐福伝説が言い伝えられています。

・参道にそびえ立つ大樹は、鎌倉時代、鎌倉往還(街道)ができたときに参道に植えられたもので、樹齢800年以上の杉や桧です。現在の参道もこの時期に造られたものです。以前は、7本杉の方にあったと言われています。

・当家本庄(梅谷)は、参道の反対側正面にあります。鎌倉往還(みさか路)を渡り、幅2mほどのタツミチを進み、水路(現在は、コンクリートでかぶせてあります。)を通り、門(薬医門)をぬけ、母屋の玄関口となります。大通りから40mほど入った所です。昔、門は通常は閉じていて、お客様が来られる時だけ開けていたと言われています。住人は、門の横の木戸から出入りしていたと言われていますが、現在は木戸は残っておりません。

 

※左図は「富士河口湖町の構成資産・構成要素と参詣道」より

河口浅間神社は、昨年12月9日でちょうど創建1150年の年でした。

 

昔『日本三代実録』には、甲斐国八代郡に富士山の噴火を鎮めるために

創建したと書かれていたため、河口の浅間神社は江戸時代は都留郡なので違うと言う論争があったようです。ただし、現在は都留郡ですが、『日本三代実録』が書かれた当時の行政区では河口は八代郡だったのです。祖父の代まで河口ではないと言われていたそうです。確かに、富士山が世界遺産になる直前まで、富士吉田で開かれた富士山世界遺産のシンポジュームでも行政関係者や一部学者さんたちも富士山の噴火を鎮める最初にできた浅間神社は、山梨県には3箇所の候補があり確定していないようなことを言われていました。最近ようやく河口の浅間神社が貞観の富士山大噴火の折、鎮めるために創建されたと言うことが一般に認知され定説になって来たようです。不思議なお話です。

 

●昭和56年(1981年)発行の第10巻東海道5伊豆国・甲斐国には、甲斐国八代郡に創建された延喜式内名神大社浅間神社の論社考証が報告されました。(皇學館大學出版部による)驚きの報告書です。例えば、「甲斐国明神大社が国府を離れた文化程度の低い地に存在するとは考えられない。」                                               など。ご覧ください。

                                               http://oohito.com/mitsutouge/archives/872

 

江戸時代、河口浅間神社は北口本宮と呼ばれていました。

江戸時代の後半、その当時100万都市と言われた江戸において、富士講と言われる新興宗教が盛んとなり江戸からの富士山に登る人たちが急増しました。以前は、甲府や信州、信濃、上野(こうずけ)などからは、御坂峠を越えて富士山の玄関口である河口を通って登拝していたので、そのため河口浅間神社が北口本宮と呼ばれていたものと考えられます。登山道も船津口登山道があったようです。

※この地図を見て、これは間違え、作為的に違えた、と言う著名な先生もご自分の本などで言われていますが、そうなんでしょうか?

 

現在の富士吉田の北口本宮冨士浅間神社は、その当時は冨士岳神社と呼ばれていた?のでしょうか?(左図)


河口御師由緒(河口浅間神社の参道の中ほどには、波多志神の祠がある)

河口の御師たちは、1746年に徳川幕府巡察使であった青木文蔵(サツマイモで有名な青木昆陽)に河口御師由緒を差し出しました。富士山御師の発生経緯をこの地の伝説をも加味して書かれた興味深いものです。その全文をご紹介しましょう。
神武天皇第三皇子神八井耳命の末孫、当山北麓に来たり、この里を発し、下津岩根の童子となづく。従い来るものを供の翁と云う。秦の徐福不老不死の薬を尋ね来て、供の翁の娘(オキナケ)を娶り、ここに留まる。日本武尊が東夷征伐の時、駿河国浮島原にて皇孫之尊と木花開哉姫尊の二神および当山を祭る。ついで、東夷を定め、甲斐国より河口の里に御幸成らる。ここで、岩根の童子一子と不死翁とを道者に当て、山に麻を奉り、「汝は神八井耳命の末孫なれば、宜しくこの神を守り奉るべし」と詔せり云々。秦の始皇帝の子孫が我朝に渡り来りて、諸国に蚕と機(ハタ) を教え上聞に達す。十七代仁徳天皇より姓を波多と給り、なお亦養蚕の師職を賜り、勅許を得て、諸国に蚕と機を教える。ついで、徐福の縁を尋ね、河口の里に来り、不死翁の娘に波多姓を見合せ、世録を分譲す。すなわち波多姓ここに留まる。諸国に蚕と機を教え云々。聖徳太子諸国巡幸の時、守屋大臣の一族が太子に怒りを含み、信濃国へ追いかけ来りせめ奉る。聖徳太子は不慮中途の御軍にて、ことごとく討ち負け、河口の里波多姓の家に落ちのび、当山に御祈誓あそばさる。波多姓は一族を催して、守屋の一族を討ち亡ぼす。是ひとえに当山の神力と波多姓の働きなり。これにより、当山の名を富士とお改めあそばされ且亦波多姓に勅許した神職に更に御の字を添え下され、当山の神職に任ず。御師の由緒件の如し。

先祖より申し伝えるに、当山絶頂の薬子ヶ嶽・秦の大明神一社・八合三愛大明神一社ならびに中宮御神御供所一ヶ所・右三ヶ所は総御師の持ちものに御座候。
延享三年(1746年)丙寅四月写申。
御巡検様指上ケ申時。
青木文蔵様
総御師代 中村左近 本庄監物 中村図書 梶原舎人 中村丹後 中村右衛門

河口浅間神社は創建1150年、富士山世界文化遺産の構成資産の一つです。

河口浅間神社本殿。

創建1150年を記念して改装事業を行いきれいになりました。

宮司による祝詞奏上。

父母杉。

子宝、安産を願います。

境内には、樹齢千年以上の杉の大樹が7本(県の天然記念物)。これだけの数の大樹は、全国的にも珍しく先年環境庁の調査も行われました。また、参道にある大樹は、鎌倉往還ができた折に植えられたもので、樹齢800年以上経っています。

浅間古道。

山宮社までの道のりを富士登山と見立てた登山道ができました。往復約500m。富士登山の疑似体験をして見ませんか?江戸時代には江戸で富士塚が多く作られましたが、これは本格的なものです。けっこう、しんどいです。

 

浅間古道入口。

 

 

浅間古道三合目。

浅間古道六合目。

 

浅間古道頂上。

美麗石(ヒイライシ)。「三代実録」に言う浅間神社を貞観7年、1150年前に初めて祀った古代祭祀の石閣といわれています。

 

明治の初め、小さな神社が合祀されました。この地は、お天神様の菅原道真公も祀られています。ご存知、学問の神様です。

当家も、菅原道真公と同じ梅鉢の家紋です。謂われは不明です。

連理の楓(かえで)

「連理の枝(れんりのえだ)」は、並んで生えている二本の木が、枝の部分で一つに繋がっているという伝説上の樹木のこと。
中唐の詩人・白居易の『長恨歌』の中に、玄宗皇帝と楊貴妃が七夕の夜に愛を誓い合った言葉としてある「天に在りては願わくは比翼の鳥と作り、地に在りては願わくは連理の枝と為らん」に基づきます。言い換えれば、男女の情愛、特に夫婦の情愛がきわめて深く、仲むつまじい事のたとえです。

「連理とは、別々の木が重なって

一つになる意で、夫婦、男女

の仲睦まじいことをいふ
男性は右回り(反時計回り)
女性は左回り(時計回り)
一周して祈願して下さい」

4月25日の例大祭には、神輿が祭りを盛り上げます。

産屋ヶ崎神社

4月25日の例大祭では、ここで神事を行い、神輿は神社に戻ります。

浅間古道頂上。河口浅間神社の山宮です。この地から、貞観の大噴火を望めたものと思われます。一番のパワースポットだとも言われる方もおられます。

昨年7月27日、山宮社に明治20年に作られた大鏡の台座が設置されました。この大鏡の台座は、河口の御師団が富士山の山頂に奉献して、富士山へ登拝する人たち全てに奉拝してもらおうと計画。残念ながら良鏡ができず、台座だけ残されていました。また、失敗に終わった鏡は、戦時中に供出されてしまったと言われています。村の古鏡が大小合わせ二百五十面も三百面も使われ、その当時のお金で約二百円も投じたと言われています。(河口浅間神社正史より)

山宮の展望台から、富士を望めます。1150年前の貞観の大噴火は、西側の長尾山(現在の天神山スキー場)あたりから、熔岩が吹き出たと言われています。この地からは、富士山も湖も見渡わたせ、富士山の噴火を鎮める為のお祈りが行われたと思われます。



富士山信仰

現在、世界文化遺産に登録されて注目の富士山。
近年は、7月と8月で富士山に登る人は、約20万人(8合目以上)を超えています。登山ブームもあるでしょうが、富士山は古くから信仰の山としても人気の山でした。
8~9世紀には、度重なる噴火で富士山は畏怖心から噴火を鎮めることを願って浅間神社を各地に建てました。河口浅間神社もその一つです。
その当時は、富士山自体に神を見い出し、「浅間大神」として崇めたのです。
12世紀には、噴火も沈静化して、遥拝の山から登拝の山へと移って行きます。ただし、修験道の道者の修行の場でした。
やがて、一般大衆が極楽浄土を目指し、登拝が盛んになるのは、江戸時代になってからのようです。山梨県では、甲府や長野・埼玉・群馬などから、御坂峠を越えて河口浅間神社(現在の富士河口湖町河口)からの登拝者が多く、最盛期には140ほどの宿坊があったと言われます。この宿坊は、「御師(おし)」と言われ道者に対して宿や食事を提供するだけでなく、祈祷も行う神職の集団の宿でした。江戸時代も後期になると、江戸から甲州街道を経て富士吉田の浅間神社からの登拝が盛んになりました。これは、富士講と呼ばれる江戸からの登拝者です。登拝は河口から吉田へと移行していきました。
この「御師」たちは、登山時期の前後、春と秋に檀那場(道者=信者の住んでいる場所)の元へ布教活動とともにお布施(初穂料)を集めていました。この時などに、富士山の絵札=護符と言われる「富士山牛玉(ごおう)」や御影(みえい)と言われる神仏の尊像などを配布しました。

富士山牛玉 http://www.amazon.co.jp/

当家は、富士山御師河口12坊のひとつで屋号を梅谷(うめや)と言い、母屋は1776年に建てられたものが現存しております。

 

 

 河口御師(おし)の家・梅谷(梅屋)

河口12坊の一つ、富士山御師の梅谷(本庄)。現在残る建物は安永5年(1776年)に建てられたものです。門は、寛政12年(1800年)に建立。河口 では、文化6年(1809年)に大火があり、86戸を焼失していますが、その時の焼け跡が、門裏側の上部にその痕跡が残っています。
この「御師」たちは、登山時期の前後、春と秋に檀那場(道者=信者の住んでいる場所)の元へ布教活動とともにお布施(初穂料)も集めていました。近年NHKで放映された大河ドラマ「軍師官兵衛」 にも出てきましたが、御師は漢方薬も自分で作り売っていたようです。ドラマではメグスリの木でした。さらには、姓名判断や陰陽道なども行っていたようで す。陰陽道は後に幕府からストップがかかったようです。富士登山シーズンになると道者たちを集め盛大に大々神楽(おだいだい)というお祭りも行われまし た。そのお祭りのなかで行われた神楽が今も「稚児の舞」として現在も7月28日に河口浅間神社で奉納されています。江戸時代の記録によると、当家で大々神 楽(おだいだい)で集めたお金がひと夏で70両という資料も残っていました。1両が5万円から20万円ぐらいの価値があったと思われます。
江戸時代、富士登山が普及したのは、浅間神社・登山道・宿泊施設・街道などの交通そして登山者を富士山へ送り込んだ御師の働きが大きかったと思われます。 梅谷(本庄)の檀那場は、信州佐久や群馬でした。先日も、佐久の方がお見えになり、江戸時代の檀家帳をお見せしたら、ご自分のご先祖様のお名前が書かれて いて、大変驚かれていました。

5月。藤の花が満開です。



また、本庄家には、江戸時代の富士登山の様子がわかる日本で最古と思われる富士山の登山ガイド絵図『富士山明細図』(カラー/56図)残っています。富士 吉田市歴史民族博物館様(ふじさんミュージアム)が解説付で本にしてくださいました。

『富士山明細図』http://www.amazon.co.jp/
※江戸時代の富士登山(『隔掻録』1816年の書も参照)
●登山者数 ⇒文化13年(1816年ごろ)1年間に1万数千人(吉田口より8000人)●経費 ⇒山役銭122文、強力(ごうりき)の傭銭400文、岩 室の灯火料164文、蒲団の借料100文 ※この頃の100文は、現在の円に換算すると約665円ほど。山役銭が122文ということは、現在、富士山で徴 収している1000円と近い金額かもしれません。
●御師の宿泊等の代金は1泊⇒約800文と言われています。すると約5320円ほど。東海道の宿で約200文ほど。




現在、河口で唯一残っている御師住宅・梅谷(本庄)は、日蓮との出会いでも知られています。1282年(弘安5年)9月12日に日蓮聖人が身延山を下って 常陸の湯治場へ行く途中、河口に立ち寄りました。神職であった本庄采女(うねめ)は日蓮に謁見、日蓮の教えに影響、采女の弟だった大同山御堂寺(真言宗)の住職を 日蓮に会わせ、日蓮宗に改宗させました。このお寺は、河口湖の西端の大嵐に今も現存する持名山「蓮華寺(れんげじ)」です。本庄采女と日蓮との出会いは、 江戸時代に書かれた郷土史である甲斐国志(1814年)にも載っています。

 

当家は、代々京都の白川家や吉田家より神職の免 許を賜っていました。白川家は、天皇家直属の神職の家で、その神道を白川神道または伯家神道と言われています。江戸時代の後期には、特に後桜町天皇(在位 1763~1770年)に使えた女官であった玉瀧院(鍾子/アヤコ)様とは親睦が深く、数多くの遺品が残っています。玉瀧院(鍾子)様は、正親町公明(正 二位、権大納言)の二女でありました。日本の最後の女帝であった後桜町天皇の「後桜町皇帝元旦御末廣」なども当家に残っています。白川家 は、千年余り続いた神職の名家ですが、昭和の代で断絶。現在、江戸時代の白川家学頭であった森昌胤のお墓もここ河口に残っています。河口や吉田の御師たち の大先生だったようです。

 

御師たちは、苗字・帯刀も許されるとともに、薬学や人相学・陰陽道、和歌や書道・茶道などもたしなむ文化人でした。河口は、古くは甲斐の国の3駅の一つと 言われ、交通の要所でもありました。さらに古くは、不老長寿を求めて中国からやって来た秦の始皇帝の家来であった徐福が住み着いた所とも言われ、祖先は帰 化人との言い伝えもあります。こんな山の中の田舎のわりには、御師たちは江戸や京都にも行き、また                                          地方の檀家がいる村々などへも行ける封建時代にあって は、自由な身であったという

                                          ことができます。                                                                                                                         

2012年12月、我が家より神代文字で書かれた写本『ミカサフミ ワカウタのアヤ』が見つかりました。

新発見!ヲシテ文字。(神代文字)縄文時代に和文字があった?


日本には、漢字が伝わる前に既に和文字があった?!漢字の伝来で封印されていた和文字が江戸時代に発見されました。
古事記・日本書紀は、この『ミカサフミ』を元にできたのか?
そして、梅谷(本庄)からも江戸時代の写本が出てきました。この神代文字(ヲシテ)が、古代縄文時代にあったのか?
これからの研究が待たれます。

2013年4月には池田満先生が 『よみがえる縄文時代イサナギ・イサナミのこころ』という書題で、『ミカサフミ ワカウタのアヤ』を

出版していただきました。

http://wosi.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-292e.html

池田満先生の基礎研究書籍の『定本ホツマツタヱ』『ホツマ辞典』(展望社)の刊行を境にして、真書であると考える熱心な研究家もその数を増してきた、と言われています。

※池田満・ヲシテ文字を復活!

http://wosi.cocolog-nifty.com/blog/

 

このメモ帳には、ヲシテ文字(ホツマ)や阿比留(アヒル)文字などいわゆる神代文字が書かれています。

このメモ帳は、22代の本庄牧夫(1782~1862年)が記したものと思われます。

この時代、神代文字を学んでいたということは、神代文字で書かれたものがあったと考えられます。

ただし、現代においては神代文字で書かれた歴史書などは偽書といわれ、無視されております。

これからの研究が待たれますが、神代文字で書かれた『ミカサフミ』の写本が我が家にあって、またそのメモ帳もあって、どうも白川家との関係もありそうだし、白川家は天皇家との関係も深いし、と考えると何か有りそうな感じがします。どこかの古墳から神代文字(ヲシテ文字)で書かれたものでも出れば??面白くなりますね。

 

本庄牧夫は、白川家とも付き合いが深かったと同時に、国学にも関わりがあったのでは?本居宣長の後継者である本居太平(1756~1833年)直筆の礼状が残っています。(写真下)

また、阿比留文字を紹介した平田篤胤(1776~1843年)は、白川家の学頭になった人であり、本居太平とは師弟関係を結んだと言われています。

 

菩提寺である善応寺の過去帳に本庄牧夫について、「白川神祇官ヨリ紅梅院真幾雄 霊神ノ称号ヲ給フ」と書き残されています。

 

 

日本再発見塾 日本の文字ーホツマツタヱー(代表 黛まどか)

http://www.e-janaika.com/juku/takashima02.html

ホツマツタヱ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%84%E3%82%BF%E3%83%B1

ホツマツタエ(日本翻訳センターによる現代語訳と英訳、仏訳)

http://www.hotsuma.gr.jp/

 

ホツマツタヱ』は、ヲシテ(日本固有文字、従来には神代文字のひとつとされる)を使い五七調の長歌体で記され、全40アヤ(章)、10700行余、で構成された日本の古典。その成立時期は、記紀との内容比較から『古事記』『日本書紀』よりも古いと主張する研究家もいる。 否定的な立場からしても、少なくとも江戸時代中期まで遡る。『春日山紀』(安永8年、1779)が出版されているため[1]。『春日山紀』は、江戸時代当時の木版活版での印刷出版物である。岩波書店版『国書総目録』に記載あり。「日本固有文字」のヲシテ文字に付いての現代表現は松本善之助の命名。根拠は、「月刊ホツマ」にて、公にされている。

ホツマツタヱ』と同様の文字による古文書である『ミカサフミ』(「三笠紀」)『フトマニ』(「太占」)も発見されている。この3書に使われている文字は同一で、文書の中では「ヲシテ」と呼ばれている。

伊勢神宮蔵の古代文字?(古代祝詞)

神代文字 http://www.amakanata.com/2012/12/10_7.html

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本庄靱負宛に送られた本居太平からの手紙。


木花開耶姫(このはなさくやひめ)

古くから、日本人は自然の中には神様がいると考えました。富士山は神様がいる山、あるいは神様そのものと思われていました。昔、富士山は度々噴火をしました。
それは、神様が怒っている、と考えました。その怒りを鎮めるために、山のふもとに神社を建てました。それが浅間(あさま/せんげん)神社です。昔から、山 の神様は、女性だと思っていました。江戸時代では、富士山の神様は木花開耶姫と言われました。浅間(あさま/せんげん)神社の神様も、木花開耶姫です。
木花開耶姫は、火の中で子供を無事に出産した、という伝説があります。そのため、富士山は、安産を祈願する神様と信じられています。木花開耶姫は、夫婦円満、縁結びの神様でもあります。

 

 

小御岳石尊大権現

小御嶽石尊大権現は、富士山北面中腹(5合目)の小嶽岳に祀られた神社で、江戸時代・享保以降のある時期に相模の大山石尊を勧請(離れた土地より分霊を迎え遷座鎮祭すること)したものです。中央に大岩、その左右に大天狗・小天 狗が描かれています。山中にある大岩などは、神の依代として昔から信仰の対象とされてきました。小御嶽神社の祭神は、磐長姫命(いわながひめのみこと)とされ、木花開耶姫命の姉とされる神様です。(富士吉田市歴史民俗博物館  「富士山の絵札」より抜粋)

 

富士山頂上。(富士山明細図より)
富士山頂上。(富士山明細図より)

【資料1】富士山信仰

富士山は、古来自然物、特に山岳に対する信仰の伝統を持っていました。日本人に畏敬の念を抱かせ、日本における様々な宗教・宗派の枠を超えて信仰の対象と されてきました。山麓から信仰心を持って富士山を仰ぎ見る遙拝(ようはい)や、山域・山麓での修行、神仏の在所と考えられていた山頂への登山(以下「登拝(とはい)」という。) という宗教行為が一般化すると、多くの信仰登山者(以下「道者(どうじゃ)」という。)が山頂を目指しました。そのため、山体及び山麓周辺に神社や仏教施設などが建立 されるとともに、登山のための道や神社、山小屋等の諸施設及びそれを支援するシステムが整備されてきました。

さらに富士山域の範囲は、山体の神聖性の境界の一つである「馬返」以上に該当する標高約1,500m以上の区域でもあり、その中でも、他界(死後世界)と 考えられた森林限界より上方の区域、富士山本宮浅間大社の境内地とされた八合目(登山道を10区間に分割した目安の一つ。登山道ごとに異なり標高約 3,200~3,375m)以上の区域と、山頂に近い区域ほどより強い神聖性を持つようになると認識されてきました。

溶岩流の末端や登山道の起点、山麓には浅間神社が建立されています。古くから富士山は遥拝の対象であり、浅間神社のうちいくつかは神話の時代に建立されたと、各神社の社伝には記述されています。特に山宮浅間神社などは古代からの祭祀の形をとどめているとされています。その後、富士山では8世紀末からの噴火 活動の活発化を受け、律令国家によって9世紀前半に富士山を神体とする浅間神社(後の富士山本宮浅間大社)が、9世紀後半には北麓にも噴火を鎮めるための 神社が祭祀されました。これが865年に建立された河口浅間神社(あさまじんじゃ)です。11世紀後半の噴火を最後に火山活動が休止期に入ると、日本古来 の山岳信仰と密教・道教(神仙思想)が習合した修験道(しゅげんどう)の道者による活動が活発化し始め、修験者の拠点が後に村山浅間神社や冨士御室浅間神社へと発展して 行ったのです。登拝の大衆化に伴って、須山浅間神社や富士浅間神社(須走浅間神社)など、登山口の起点にも浅間神社が建立されたと考えられます。

18世紀後半から爆発的に江戸で流行した富士講(新興宗教)の信者は、山頂を目指して富士山に登るだけでなく、周辺の風穴・溶岩樹型や湧水地などを巡り、 巡礼や修行を行っていた。特に先達になる人は必ずそうしたと言われます。富士講の開祖とされる長谷川角行(1541-1646)は、16~17世紀にかけ て人穴(人穴富士講遺跡内)で修行をし、富士五湖を始めとした8つの湖、沼や白糸ノ滝で水行を行ったとされています。

このうち八合目以上(標高約3,200~3,375m以上)は、1779年以降、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)の境内地とされています。これは、 山頂にある噴火口(内院)の底部には浅間大神が鎮座するという考え方から、その底部とほぼ同じ標高である八合目から山頂までが神聖な地と捉えられたからだ と言われています。ほぼこの境域に沿って富士山体を一周する巡礼道は、富士講の開祖とされる長谷川角行によって16~17世紀頃に開かれたとされ、その 後、「大沢崩れ」という危険箇所を通るため富士講信者により修行の道として大いに人気を博し、「御中道」と呼ばれました。 富士山への信仰登山が開始されると、修験道の影響を受け山頂部において寺院の造営や仏像等の奉納がおこなわれるとともに、山頂部での宗教行為が体系化され て行きました。経典(12世紀末~13世紀前半と推定されるものが最古)・仏像等(1303年の銘があるものが最古)の山頂部への埋納・奉納や火口部に当 たる内院への散銭が行われたと言われています。
明治時代になり、廃仏希釈によって仏教的施設や仏像などは神仏分離の影響によって撤去されました。

 

富士山信仰について(静岡県 文化・観光部 富士山世界遺産課)

http://www.fujisan223.com/reason/kouseishisan/00900.html

 

 
【資料2】富士講(ふじこう)

1、富士山とそこに住む神への信仰を行うための講社です。広義の富士講。
2、特に江戸を中心とした関東で流行した、角行の系譜を組むものを言います。
  講社に留まらず、その宗教体系・宗教運動全般を指すことも多いです。狭義の富士講。通常はこちらを言います。


享保期(1716年から1735年まで)以降、村上光清や食行身禄によって発展しました。一般に地域社会や村落共同体の代参講としての性格を持っています。

富士吉田の北口本宮冨士浅間神社は、村上光清の財力によって建て直されました。灯篭、幣拝殿などに卍(まんじ)が多く刻まれています。
吉田口では御師の屋敷が最盛期で百軒近く軒を連ねていました。富士講は江戸幕府の宗教政策にとって歓迎された存在ではなく、しばしば禁じられたこともあったようです。
河口御師の場合は、鎌倉・室町時代ごろから発達し、富士講の影響によりできた形態ではありませんが、江戸時代末期になると次第に富士講の繁栄に伴い河口から富士吉田に御師の勢力は移行していきました。

 

富士講

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E8%AC%9B

富士講と御師

http://www.cbr.mlit.go.jp/fujisabo/fuji_info/mamechisiki/d01/

御師について

http://oshinoie.client.jp/

 

 

富士吉田の北口本宮冨士浅間神社の参道です。左右に小沢坊と河口坊の灯篭が立ち並んでいます。

灯篭には卍のマークが。そして御師の大小沢坊と村上光清同行の文字が刻まれています。卍のマークとは何を意味しているのでしょうか?現代の日本では仏教を象徴する記号としてよく知られていますが?

本殿の左右にも卍のマークがかがられています。




2012年師走。池田先生ご夫婦。コーディネートしてくださった宮崎先生と。

我が家より神代文字の書籍の発見となりました。

翌年には、池田満先生が 『よみがえる縄文時代イサナギ・イサナミのこころ』という書題で、

『ミカサフミ ワカウタのアヤ』を出版していただきました。

http://wosi.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-292e.html

アマミ舞の方々や祝詞シンガー来訪
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当家に来訪!白川神道研究家の宮崎先生と山口先生
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ホツマを研究されている方々と富士宮の富士山本宮浅間大社へ参りました。

古代の富士王朝を求めて。

イルカさんが我が家へ来訪!

イルカさんの公式サイトにも紹介されています。

http://www.iruka-office.co.jp/essay/201510post-394.html